共時性について

共時性について知り得ていることを書く。


共時性(synchronicity)とはユングが用いた概念で、意味ある偶然の一致と解される。しばしば喧伝される精神電流などの偽科学的な解釈は危険であり、注意深く観察することが大切とされている。カウンセラー、クライエント共に共時性(synchronicity)が起こりやすい人と起こりにくい人が存在する。


共時性について思いつく説明は以下の通り。

1.乱数調整

量子力学に見られるように観察が状態を変化もしくは決定させる。また、極めて初期の偏差が大きく未来を左右させる。環境によってエントロピーが変動するが、その大きな流れを認知することが共時性の認知として知覚される、と自分は考える。

この考えによれば占いの相関関係や先祖の縁、宗教や因果律による影響を包括的に理解できる。ある程度影響を受ける者はクラスタごとにまとめられており、そのことを発見した時に偶然の一致に驚く(一種の感動を覚える)。神や超越的存在や宇宙の物理法則などによって操作もしくは決定されているのかどうかは不明。


2.引き寄せの法則

いわゆるスピリチュアル的なハウツーとして解釈される。万物や色、音、言葉には波長があり、波長が合うものは引き寄せられ、波長が合わないものは遠ざけられる。従って、意識の上で良いものを思い浮かべていれば良いものを引き寄せ、悪しきものを思い浮かべていれば悪しきものを引き寄せるので、ポジティブシンキングやビジョンが大切と説く。潜在意識が引き寄せる影響も大きいので、自分を愛することや、受け入れること、潜在意識を肯定的に導く祈りなどが大切であることが同時に主張される。

自己啓発系ではマーフィーの法則が有名。都合の悪いものから目を背けるようになると逃避的な人間性を助長させ、同時に特異的なものに執着、依存する傾向が強く見られやすくなることは指摘したい。


3.認知科学

人間や動物は生理状態(空腹などの欠乏感)や感情と気分により、強化学習された刺激もしくは先天的な刺激(解発刺激)の閾値が低下する。関心事がある場合も関連した領域の刺激を認知しやすくなる(妊娠してからマタニティマークや妊婦をよく見かけるようになるなど)。刺激の同定(identify)には自我における認識との時間差があるため、実際には出現頻度が変わらないものをよく見かけるという現象が生じる。記憶の中の刺激の同定も同様である(名前や誕生日や出身地が近いなど)。神経生理学的な希求活動が基盤となるが、本人がそこに因果律や意味(meaning)を見出せないとき、偶然の一致であると感じる。

とはいえ出来すぎていると感じるような偶然の一致もあるが、人間の記憶容量は膨大であり、意識下に登らない連合された学習(先天的なものもある)もまた膨大であるため、科学的な手法で理解することが難しくても、不思議ではない。


4.ユング心理学

ユングは、人間には自我が意識しない自己実現欲求があり、劣等機能の開発や、神話や昔話などに見られる普遍的な発達課題をクリアするために特徴的な心像(image)やコンプレックスを自己(self)が布置すると考える(constellation)。

従って、全体像を見て浮かび上がるコンプレックスや発達課題について考えるとともに、課題解決に向けて無理をしない程度に努力すべきであり、因果律に囚われていては見落としてしまうこともあるとユングは主張する。

共時性は、因果律に囚われないものの見方であるとしている。また、取り組むべき一つの課題解決に向けたヒントとされるので(自己による自作自演だが)、この考えに従えば、共時性が生じるのは基本的には良いことであり、そのことに励まされ現実的な努力を続けるのが良いとされる。


色々経験してただ一つ言えるのは、共時性(synchronicity)がある方向に進んで行けば後悔しないということだ。

挑戦の足跡

苦手なことを克服してきたノウハウを書きたいと思う。

 

小学生の頃は友達ができなかった。それは転校を機に友達を好きになることで簡単に解決した。

好意の返報性が人には備わっているから、その人のことを好きだと思って接すれば好かれることは簡単だった。自分が傷付かないように面白いキャラクターを演じ、楽しませれば大体の人には好かれる。

スポーツはできなくても器械体操でバク転までできれば悪い風には取られなかった。

 

中学生は自分の勉学の才能の無さに辟易した。国語の読解も才能がなく苦手だったが、先生の「正しい読み方」を細かくメモし、出題者の意図を読んで解答すれば簡単だった。論外な選択肢は除外し、迷うものは根拠となる裏を取って、選択すれば大体合っている。覚えれば落とさない問題を完璧にしておけば、最期の学年末テストで満点を取ってトップになるのは簡単だった。

 

高校では苦手な先輩がいた。尊敬もできないパワープレイで押してくるような人。相手の先の先を取って完封すればボコボコにするのは簡単だった。

他人の心の痛みが分からなかった。「いい人」とされる人が自殺する理由も分からなかった。鬱病のチェックシート通りに考え、行動すれば、ネガティブに考えてしまう人の気持ちを体感するのは簡単だった。

リストカットをしているのに普通の人と同じようにしている人のことがよく分からなかった。自罰的な考えで自分を追い込み、リストカットすれば、リストカットをする人の気持ちが分かった。浅くしか切れなかったが、自分の保身から来る一線を踏み越えれば最終的には静脈まで切るのは簡単だった。普通にしていることは、不幸を受け入れて他人と共有しないようにすれば簡単だった。

助けたい相手との共依存を避ける方法が分からなかった。見立て(見通し)を持って当たることで解決した。

音楽が苦手だった。家にあったギターを四六時中弄ってたら一ヶ月で使われるコードは全て抑えられた。バンドを組んで1日10時間の練習をしたら誰よりも早く上達するのは簡単だった。

大学を受験するつもりがなかったが受験することになった。歴史を全く覚えていなかったが、政治経済に転向したら一ヶ月で合格ラインに乗った。受験勉強は二ヶ月で終わった。最終的にセンター試験は国語9割でねじ込めた。

 

大学に入ったが、カウンセリングの見立ての立て方が分からなかった。発達段階(ライフステージ)的理解と、性同一性の理解、分析心理(神話・象徴)学的理解と、家族(病理)分析、遺伝気質学的理解で大体の見立てが立てられるようになった。最終的には30代のカウンセラーと同じ見立てが立てられるようになった。

最初は寄り添い方が分からなかった。それに対しては相手の話に頷くこと、最大限関心を持つこと、驚いて見せたり、感情豊かにコメントすること、相手の話を否定しないで、理想と現実のギャップに共感することをしていれば、最低限話を聞くことは簡単だった。

そこからは相手のコンプレックスを意識しながら話を聞き、その枠組みに沿って言葉を返すことを重ねた。当時は音楽の歌詞を聞きながら言葉のニュアンスを違えないように言い直すことを練習したりしたっけ。

最終的には要約、共感、解釈を繰り返せばそれらしくなった。相手の目線から映る自分をイメージし、共感しているように見えるように自制すること、傷付きの核心を深いところから取り出してその痛みを声色に滲ませて明確にすれば、相手を涙させることまでは簡単ではなかったが、できた。

実習に当たるときは、必ず前回までの内容を見返すこと、今回話した内容を全て逐語録に起こすこと、寝る前に解釈をまとめてSVに報告すること、翌日解釈を見直すことを徹底して行っていたっけ。

結果も出て、県トップの心理士の先生から才能があるって言われたりしたっけ。他人の心が分からないのに。

論文が苦手だった。フォーマットを完璧にして、明確に簡潔に書くことをしたら簡単だった。

 

大学卒業後、占いに興味を持ったが、占いが存在する理由が分からなかった。占いをしてみたら第六感でスケッチしていたところが簡潔に示されていた。周期の根拠は理解できないが、星座を類型的に理解して数を象徴学的に理解することはできた。

政治で「正論」と持て囃される意味が理解できなかった。感情的な不利益や被害感から出発して一貫して合理的な理屈を並べて攻撃をすると理解すれば簡単だった。

新興宗教が沢山あることが理解できなかった。キリスト教系、仏教系、神道系、サイキック系を土台に、信仰者を非信仰者より格上に定義付け、教義で行動を制限し、信仰者の価値を上げたり下げたりして自尊感情を揺さぶり、ユートピアや共同体を掲げ一方で恐怖を煽り布教行動を誘導し、金を効率的に巻き上げる仕組みとして理解したら簡単だった。最終的には(依存によって抑圧された)恐怖心による行動支配が本質と理解することができた。

 

自己啓発系の仕事術がなぜ良くないと言われるか分からなかったが、物事を単純化して因果律として捉え、習慣化して自己の不協和を抑圧すると捉えれば、新興宗教と同じと言われる所以を理解するのは簡単だった。

ちなみによく言われるビジョンを浮かべることや結果を意識することは、意思決定の研究ではハイリスクな行動を誘導させると結論が出ている。これも恐怖の抑圧であり、視野の限定に一役買うこととなる。

自己啓発本の内容を自分でやってみたら、モチベーションは高くなり、判断は早いがリスキーな方向に偏り、仕事量は増えるが配慮を無視しがちな人物になった。

基本的に、配慮領域の広さは能力に比例する。また、全体を見れることが心に余裕を生まれさせる。配慮領域を広げることの習熟は本来時間がかかり、また困難なことであるので、安易な方向に逃げないことが肝心と思う。

 

他には、作業を早く行う方法が分からなかったが、早い方法を模索すること、少しでも早い方法を取ること、物理的に早く動くこと、効率を重視し無駄な回数を減らすことを積み重ねたら、最終的に普通の人の半分に近い時間で終わらせることができるようになった。疲れは無視し続ければ感じなくなることが分かった。

 

芸術が苦手で、分からなかったが、絵の深さを感じとる、どんな風景を見ながら描いたか想像する、目に留まる場所=強調したいところ、線の流れ(力の向き)が上手く流れているか(無駄がないか)を意識すれば、理解できるようになった。製作者がどのような想いで強調して描いたのかと考えれば、芸術を楽しむのは簡単となった。

投影法として理解するには、左半分が内界、右半分が外界、上が形而上的世界(救い)、下が無意識(トラウマ)、右上の領域が理想や向かうべき方向、右下の領域が家庭や身近な環境、左下の領域が本能的エネルギーの源泉、左上の領域が立派な精神、右が未来、左が過去と、どうエネルギーが流れ表現されているかを見れば簡単に理解ができる。

勿論、芸術は分析などという野暮なことはせず、只々感動する。

 

サイコパスは歩き方で弱さが分かると言うのがよく分からなかったが、歩き方や動き方から受ける印象から、その人の行動(反応)の限界を様々に想像することをしてみたら、同じことが簡単にできた。職業と年収、交際関係と両親のタイプと心理状態くらいは、印象の範疇とそう違わないんじゃないだろうか。裏を取ったら大体当たっている。

 

メンタリストDaigoが何故当たるのかが分からなかったが、暗示誘動を見ること、微表情を読むこと、その人の思考(嗜好)の限界を読んで確率を割り振れば、同じことが簡単にできた。

 

あとは、

性的なことは嫌悪感情を潰し、離人感の延長で相手がゾンビだと思えば何時間と行為するのは簡単だった。

テクニックが分からなかった。自分が気持ち良くなく相手がして欲しそうなことをすれば満足させることは簡単だった。

激情が分からなかった。何も考えずに一線を踏み越えて身を任せれば簡単だった。

 

昔は恐怖心が強かった。

自分以外の人が怖かった。人それぞれに魂があって死後天国に行くと信じれば怖くなくなるのは簡単だった。

他人の目が怖かった。自分の持っている権威や保身を全て捨てれば怖くなくなるのは簡単だった。

失敗が怖かった。目標ではなく目的を意識して最善ではなく最良の選択をし続ければ怖くなくなった。

暴力が怖かった。自分が相手よりも危険な人間になれば怖くなくなるのは簡単だった。最終的には相手が六本木のやくざだろうと脅されようと恐怖を感じることなく丁重にもてなせた。

抑鬱感情に呑み込まれることが多かった。因果律を細かく分解し、自罰思考から他罰思考に切り替えてリスク管理の不備を責めれば感じずに済むようになった。罪悪感や悲しみは、思考として形を成す前に抹殺して墓の下に放り込んだ。

 

昔から、分からないものは自分に問いかけるか、分かる人から本質を抽出して盗み出せば簡単だった。

 

相手を受け入れるのが苦手だった。全てを受容して肯定すれば意味が見えて、相手の人生と感情を読むことは簡単だった。

 

どれもこれも前世のことのようだ。

 

暗いな。

 

AIと国教

AIに関しての考え方の差異と宗教的考察。


西洋はキリスト教圏。キリスト教は人間にとって自然は統べるものとされる。従って、神>人間>家畜>自然の序列。

AI(機械)は家畜と同列とされるが、家畜の序列が人間と同等もしくは、それ以上になることを恐れる。

猿(家畜同然のもの)が人類に反逆する、AIが人類に反逆する等。一方で、家畜(奴隷)が人間と同等の権利を持つか、AI(奴隷)が人間と同等の権利を持つかといったことが議論される。


日本では、神道と仏教が普遍的。神道では、神>自然>家>人間の序列。仏教では空>人間>色の序列。

西洋では神のすぐ下が人間のため、恋と愛は人間と結びつけられ、自我の確立としても心理的に重要視される。日本では、家が人間より上位であり、仏教的にも色恋沙汰は下位であるため、恋愛と自我確立は忌避される。

AIは日本では家と共存できる存在、もしくは生活を壊さない対象としてなら受け入れられる。家庭を壊す『欲』となる場合は恐れる。

近年日本も考え方がキリスト教圏に近付いているものの、まだまだ一般層では家>人間>欲(AI)の傾向が強い。


それが西洋と日本においてのシンギュラリティ(技術的特異点)に関しての危機感(恐怖心)の本質的な差異に表れている。

意識の真相

小さな頃、哲学的ゾンビについてや、世界5分前起源説、物質と意識の連続性から、仏教的な色即是空、魂について考えていたが、結論はデカルトのように「我思う故に我あり」意識のみが信じられると結論付けられるようになった。


しかし、ここにその反証を展開してみよう。

意識受動仮説のように、意識はあたかもペンライトの残像のように、行動が先にあり、意識はそれを後追いしているに過ぎないという仮説がある。

つまり、意識される行動にまつわる理由付けや、感情さえも、脳の速度計の観測機能に過ぎないと結論付けられる。

とすれば、実際は行動のみを観察すれば良く、行動心理学者はそのようにして心を解釈してきた。


アドラー心理学では、感情を道具として使用していると洞察する。つまりは、人間の合理的な理由付けや感情には目的を持った演技として解釈する見方も成立するという。

これを拡大すれば、人間の人格やユングの言うペルソナというものも、一つのまとまりある体系を持った道具に過ぎないと結論付けることができる。実際、人間は場面場面において人格が少しずつ違う。

多重人格障害さえも、根幹となる存在や魂なるものが先にあり、人格を道具として使用しているという見方も成立する。

平易な言葉で説明するなら、人格はその人間の一側面として存在するということだ。言葉にすれば簡単だが、人格が人間の中心でないのなら何が人間の中心なのか、という議題を考えなければならないだろう。ユングは自己(self)と言ったし、宗教家は魂と答えるだろう。アドラーは意志、だろうか。

AIにおいては、まだ人間の特徴検出とAIの特徴検出は異なったアルゴリズムを使用しているようだが、人格体系を持ったアウトプットが可能になれば、そこに見分けは付かなくなるだろう。たとえ意識(自我)という機能が搭載されていなかったとしても。

行動を見ていれば、推論してそこから人となりを想像してしまう。


カウンセリングを行うと、人間の行動を変えることの難しさに直面する。

意識はなかなか変わらないし、意識を変えたとしても行動を変えることは難しい。結論としては、クライエントの「時熟」の手伝いをしているということしかできない。論理的な考え方や合理的な行動を「教える」ということはできるが。


結局、人間を環境に放り込めば、何回やっても長い時間をかけて殆ど同じ結果になるだろう。つまり、環境や、その人と環境との関わり方が重要であり、それが少しずつ変わることによってしか、人間は変わらない。

とするなら、環境を軽視した自己啓発は正しく無理を生ずるもので、体系的な変化が起こらなければ、傍目からは不可思議な奇異なものとしてしか映らない。

もし意識がペンライトの残像なのなら、残像でいくら考えても軌道を変えることはできず、次にペンライトを振るその瞬間に変えてなくてはならない。

こうなると、それは最早反射神経的なレベルの問題になってきて、神経生理学的な変化が生じないといけないということになる。実際、鬱病などの精神疾患や悪い習慣を変えるということは、神経生理学的な基盤の変化を必要とし、ある程度の時間がかかる。

人間が変わりたければ、意識や行動を変えたいと思うだけでは十分でなく、とりまく環境や人格へと体系的な変化が生じなければならない。その点において、宗教や自己啓発セミナーで効果的なものは、効果的であればあるほど、危険性が高いということは指摘できる(つまり恣意的に人格と環境との関わりを変える力を持つということ)。


人間にもし魂があるとすれば、魂は人格や意識、その基となる身体性を利用しているだろう。

行動そのものは身体性を含む環境の因果に規定されており、意識は原因でなく、結果の一つに過ぎない。


また、AIには意識(自我)の機構を搭載する必要はなく、人間の意識もまた、人格や魂に支配されているのであれば、意識の存在理由には揺らぎが生じてくる。

「意識(自我)がない存在」も、十分非現実的な考えとは言えなくなってくる。


アドラーフロイトはエネルギーのようなものとして見たし、魂もまたエネルギーのようなものと言えるのかもしれない。実際、魂などの非物理的なエネルギーが脳内の量子に影響を与えるというモデルは考えられ始めている。

あるいは、神秘主義者は神というかもしれない。スピリチュアルでは宇宙の意志や万物の作用というかもしれないし、天体は途方もない周期性を持ち、占星術は天体の周期性を拠り所として支配星というものを考えている。

さて、面白いことに、仮に宇宙人がいたとしても、地球人と同じように意識(自我)がなければならないという必要性もないのだ。意識を持たないAIのような存在が、宇宙人では当たり前の世界があるかもしれない。


言葉はコミュニケーションに使用されるのであって、必ずしも概念の理解に使用されるわけではなく、頭の中で言葉を発しなくても実生活上で困ることもなく、人格でさえも意識の必須構成要件というわけではない。

私達が思っているよりも、意識やら人格やら無意識やらを、魂やそれに類する存在は利用して使用しているかもしれず、そして上に見てきたように行動にとって意識が必要であるというわけでもない。


という、オカルトのような話が、意識の真相じゃないかと現時点では思った。

つまり、デカルトの言うほど意識というものはさして重要ではないんじゃないか。クオリアの議論も結局、意識の奥にある魂の存在を問題にしている。

意志>魂>身体>人格>意識(クオリア)が図式となる。

ちょうど、「我思うゆえに我あり」はこの序列を逆さまに見た世界観となっている。

今まで長々と述べてきたことは、スピリチュアルな観点から心身二元論の視点をひっくり返してみただけの話である。


本来はどっちでも良いことだ。

ゲーム理論に学ぶ勝負論

ゲーム理論とは、囚人のジレンマに代表されるような、行動の選択におけるメリットとデメリットを数値化し、合理的な選択を考える科学。

ゲーム理論を勝負と置き換えた場合、まず考えるのはAとBを選択したときの自分の得点(メリット)と失点(相手のメリット)を測ること。

次いで、全体の利益(得点)を測ること。

自分の得点と失点を差し引きして、最もリスクが少なく、得点(利益)の多い選択肢が、合理的行動となり、勝利に繋がる。


ここでは、長期的な勝利という観点から、ミニマックス戦略『ティットフォータット』を紹介する。

ミニマックス戦略とは、リスクが高い行動よりも、失点を抑えることを最大化することを目的として戦略を立てる。ティットフォータットは、日本語でしっぺ返し戦略とも言われる。

協調(リスクが少ない行動)を軸にして、相手が競争(リスクのある行動)を取ってきたら、即座に負けじと対抗する。相手が協調の意を示し、こちらも元が取れたら、協調に移行する。

こうしていけば、失点は最小化でき、最小のリスクで、得点を積み重ねることができる。こういったことがティットフォータットの行動理念としてプログラムされている。プログラムは四行と、至ってシンプル。

ティットフォータットは大勝ちはしないが、平均した得失点では限りなく最強となる。


駆け引きに関して、更に突っ込むと、

勝負ごとやギャンブルに限らず、現実には、リソース(資源)と確率が存在する。

リソースがあるために、確率の偏りが生じてくる。また、元から確率に偏りがある場合がある。

例えば、「AもしくはBの選択肢を選んでください」と言った場合、選択肢を選ぶ確率が均質だったとしても(実際には偏りがある場合が多い)、その人の心構え次第で、選択の確率には元から偏りがある。その人の性格と経験にもよっている。

Aを取りやすい人も、Bを強調すれば、協調してBを取りやすくなるかもしれない。また逆に、抵抗の意を示してAを取りやすくなるかもしれない。ここに相手を読むことの重要さが表れている。

指摘できない限りの強調(アンカリング)を繰り返せば、無意識にBを取りやすくなるかもしれない。

また、意識のリソースには限界があり、意識していないところは抵抗できず協調してしまうこともある。こうして確率は変動される。

また、物理的なリソースが限られるにつれて、選択肢の確率にも偏りが生じてくることも忘れてはいけない。


損失を抑えることの最大化は、徹底する限り長期的には強い選択肢となる。社会的にも有効な選択肢でもある。

更に、ミニマックス戦略を変動する確率に対しても適用できれば、時に大胆に見える行動を取らなければならない場面も生じてくる。

簡単にリスクを取ることは避け、有利な条件や勝つ確率を高める知識と行動に気付くこと、それに向けた努力と選択肢を考え続けることは勝利に繋がる。


もっとも、勝負ごとは得意じゃないが。

本の早い読み方

本や話などの内容の読み方。

 

1.プロットを読む、結果から見る

プロットの読み方は、まず大まかな意味段落に構成を分け、大体の流れを掴む。全体から要素を分解し、いくつかの軸(柱)となるものに再構成する。

たとえば、表向きは、トピックごとに分けられて、全然関係ない話をしているが、根底では共通しているテーマがあることを見抜いて再構成するとか、相手が導きたい論理展開や、話のもっていき方(会話の波)の裏に、見落とされそうなテーマや誘導が隠されていないかを読んでまとめる。

 

結果から見ることが何故大事かというと、意図された伏線から構成を読むことは難しいが、構成から意図された伏線を読むことは簡単だからだ。

違う言い方をすれば、

1を見て10を知るにはイメージ訓練が必要だが、10を知って1を見るのは非常に簡単な作業となる。

近道は、答え(完成系)を知って(イメージして)から解法(方法や手段)を知ることだ。

断然早い。

 

2.本質を掴む

話の内容には、核(本質)となるものがあって、その周りに導入部分や方法や具体例やエピソードが布置されている。

まず本質となる、核となる部分が理解できるかにあたる。理解できなければ方法や具体例にあたる。

本質が理解できれば不要な部分は飛ばして良い。

方法や具体例を読む、理解する時間がなくても、本質(核)が理解できれば、少なくとも自分に得られたものは十分といえる。

それを基にノウハウを創作すれば完全に自分のものとなる。

 

論文で言えば、題名と考察を読む。精度を上げたければ方法と結果を読む。出来る限り恣意的な操作(ミスリード)を避けて、自分の頭で考えたければ、方法と結果のみ(事実のみ)を見る。

思想、洗脳、政治、科学、大体において応用できる。

慣れれば、目次や表題を見て、大体内容が想像できるようになる。

 

これを使えば自分の為になる本を探すのも、読むことも早くなる。

速読?とはちょっと違うけど。

メモを取ることは大事。

秦基博の『鱗』と結婚式

秦基博の『鱗』が友人の結婚式でリクエストされ、歌われたそうだ。

秦基博は典型的なイメージ思考の人で、歌詞にも一貫してイメージを介した感情表現がなされている。
秦基博の『鱗』は、自分が魚で、身を守る鱗を脱ぎ捨ててでも、激流に傷付きながらでも、相手に思いを伝えなきゃという歌。でも相手は風の吹く場所にいる。つまり陸上にいる。緑だから葉っぱかもしれない。従って、強い思いがあっても叶わない恋を歌っている。
秦基博が「僕は魚」って言ったら最初から最後まで魚なのに、友人はあまり歌詞を理解していなかったかもしれない。
もし友人が典型的な音声思考タイプの人間だった場合、「たとえ傷付くことがあっても、裸の思いで相手に強く引きつけられるんだ」という共感と解釈をしている可能性は高い。
そうじゃなくて歌詞の意味を分かった上で、有名で良い曲だからという理由で選曲したのなら、それはそれで作者への冒涜かとも思う。

とはいえ、どういう風に考えるかは、個人の自由にある。
幸せなら、良いんじゃないか。