とある信仰宗教について

箸休めにとある信仰宗教の話。

 

前提として輪廻転生を繰り返し、より高次な存在となるために計画を立てて、修行のために人はこの世に生まれるとする。従って、この世の幸不幸は予め予期されたことであり、不幸を乗り越えることにより人は学び、高次な存在となれるのだと言う。

更に、精神的な波長は引き寄せの法則を通して引き合い、まとまったコミュニティを形成する。従って、善き思いは善い縁を引き寄せ、悪しき思いは悪い縁を引き寄せるとする。

これは因果律として、悪しき思いは悪しき報いを、善き思いは善き報いを得るとみなされる。

思いは言葉に、言葉は行動に表れ、然る後に裁きを受ける。従って、悪しき思いを悔い改め、善き思いに転換することが、不幸からの解脱の道だと説く。

そして心の在り方が、天国、地獄へと繋がってゆくとされる。

 

ここからが非常に特徴的だが、人はそうした破滅への道に曝されながら生きているのであり、縋るものとその基準が必要とされる。

それが主の言葉であり、これに従いながら働き、布教することで、善き世界を作っていくものとしている。

これが信仰である。

以上が基本的な骨子となる。

 

問題点としては、人間の最大の不幸は、転生輪廻をもって救済されるという点であり、不幸を自覚すればする程、あの世の存在というものが必要となり、また原動力とされうる。

次に、善き思いには善き報いが、悪しき思いには悪しき報いがあるとすると、善き思いの基準となるものが必要になってくるが、上位者の言葉が基準となった場合、不安を煽りそれを救うというような言い方となれば、純然たるマインドコントロールとして機能することである。

次に、然るべき裁きが個人に内在化されると、それは他者に対しても向けられるようになる。結果として、都合の良いコミュニティと、都合の良い自己正当化の道具として教義そのものが使われる危険性を孕んでいる。要は排他的になるということである。

最後に、働く事や資産に宗教的な意義を接続すると、理不尽な苦行や、反対に金銭的な裕福さも、全て教義に変換され、吸い上げられる仕組みとなってゆく。

つまり、資産、労働力ともに限界値が死と設定されうる。

 

余談だが、善き原因には善き結果があること、悪しき原因には悪しき結果があること、その間にある自他の苦痛を無視するようになると、これはサイコパス特有の識別学習法に近似しており、信徒の異常性を際立たせる結果に繋がりかねない。

 

以上がとある信仰宗教の問題点であり、宗教組織の問題点として示唆を得るところは大きい。