真作と贋作を見抜く方法

芸術について。

芸術に関して、ショーペンハウアーの弁を借りれば、天才の芸術家はイデアそのものを伝達する。つまり芸術の鑑賞には因果関係(理由)は必要ない。
ここでは芸術作品の真作と贋作を直感的に見分ける方法を紹介する。
 
絵画芸術の場合。芸術を真に鑑賞する場合、まず因果的なものの見方を棄却する必要がある。
人は視線を発しているが、視線の動きは普通、対象物から対象物へと移動し、クオリアを認識する。それと共に、長い間、視線が一点に留まることがない(離人症の人を除く)。これは因果的で機能的なものの見方に由来しており、芸術を鑑賞するに不向きである。従って、直感的に芸術を把握するために、この方法を棄却する必要がある。
 
絵画の中心付近に視線を集中させ、さらに絵画の中を起点にして、糸を垂らすように視線を下に伸ばせるかという感覚を試すと、名のある芸術家(デザイン系以外)の作品は、どこまでも深くまで潜り込める。対照的に、贋作師の描いた作品などは、せいぜい数cmか、十数cmしか、絵画の中の起点としたところから視線を先に伸ばせない(離人症傾向のない人だと、この感覚は難しいかもしれない)。
この傾向はデッサン程度の作品でさえ如実にある。
 
この方法は、視線を絵画の中心付近に固定して、全体をアプリシェイト(認識)することで、絵画の抽象性と統合性を把握する。天才や優れた芸術作品は抽象度だけでなく、構図としての統合性も高度なので、絵画の全体を把握した際に、大きな差として表れる。
凡人や芸術的なIQ(才能)が低い人が描いた作品は、抽象性と統合性が低いため、視線の注意力が散漫になり、結果、集中し続けることが困難になる。そのため、こうした違いになるのだと考えている。
真作か贋作かに限って言えば、この方法を使えば、8〜9割は見破ることができる。
 
補足知識として、
万人共通のものとして、右側が外的なもの、左側が内的なものとして認識されやすい。従って、新奇性のあるものは右に配置され、古く、安心感のあるものは左に配置される。より身近で、基礎として感じられるものは下半分に配置され、より意識的な志向を有するものは上半分に配置されることが基本。
これは宣伝広告から映画やドラマの構図に至るまで、共通した見せ方となる。
画面向かって左側から右側に力が働くことは、力強く前進的な印象を与え、右側から左側に力が働くことは、穏やかで郷愁的な印象を与える。
応用して、孤立した人間を印象的に描きたい場合は画面の右側に配置すれば良いし、身近に感じさせたい人は左側に配置すれば良い。
ついでに言えば、CMや広告には①女性②食べ物③ペットか子供のどれかを登場させるのが基本である。アピールしたい新商品のビジュアルなどは中心か右側に配置するのが定石。
 
話を戻すと、高度な芸術作品では、曲線などの力の向きが全体として統合性を乱すことなく美しく描かれ、また高い抽象度をもって結晶されている。
従って、上記のような方法で絵画の全体をアプリシェイト(認識)した場合に、なんら不都合なく作品に入り込むことができる。
 
同様に、彫刻作品の場合でも、曲線や重心などの力の向きが、途中で乱れたりばらけることなく、高い抽象度をもって結晶され、全体として高い統合性をもってまとめられている作品は価値が高い。贋作の場合は、曲線や重心などの力の向きが、途中で無駄に分散され消耗され、スマートでない。つまり抽象度が低いために区別することが可能である。
 
最も、その力の向きとやらを高度に結実させる(抽象化させる)には、果てしない芸術的IQ(才能)と創造的エネルギーが必要である。
そんな人がなかなかいないからこそ価値があり、また贋作とは違っているのだ。