読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

恐怖症と行動原理

恐怖症の克服から行動原理について考える。

例えば、ここに対人恐怖症を訴える人がいたとする。

異性恐怖かもしれないし、視線恐怖かもしれない。もしくは、広場恐怖や反対に閉塞感から閉所恐怖症が原因かもしれない。それは過去のトラウマに基づくものかもしれないし、気質的に不安感受性が高いのかもしれない。

家庭環境、職場のストレス環境、あるいは脳の気質的変化が起きていて、それが原因かもしれない。

ここで押さえておきたいのは、恐怖の原因は自分にあるということだ。


ここでお勧めしたいものとして、『捨てる』というすすめがある。感情的な物事の断捨離。

人間捨てるということは、存外簡単にできる。例えば、対人関係をまるごと捨ててしまえばいい。そして捨ててみて、それでも会いたいと思う人にだけ、会ってみれば良い。

こう言えば当然、対人関係から逃げているだけで何の解決にもならないという批判があるだろう。

しかし、実はその批判性が恐怖を生み出している。他者が恐らくこう思うだろうというものは、自己の他者に向ける批判性が自己に向いていることによる。逆投影のようなものだ。

仮にそれが真実だとしても、それがどれ程重要なものなのか。重要でなければ、捨てれば良い。そして捨てることを躊躇うとき、何が自分にとって大切なものかがわかる。

重要でないものを捨て、大切だと思うものに意識を向ける。不安や恐怖は、向けるエネルギーが分散してしまって身動きが取れないことによって起こる。

そもそも無理なことは受け入れて開き直るしかない。

捨てゆく中で大切なものが何かが分かる。他者に魅力的だと思われていたいだとか、自分のステイタスを理解させていたいとか、自分が批判する立場であることを他者から批判されて脅かされたくないとか、あるいは他者に守ってもらうという手段を手放しがたいとかも、あるかもしれない。

重要でないことは捨て、大切なものを守る手段に意識を向けて強化していく。できないことは受け入れて開き直るしかない。


人間の行動原理は二つしかない。

ギャンブル依存のように報酬系を求めて頑張るか、より強い恐怖を避けるために頑張るかの二つ。

恐怖によって動くのは非常に正常な人間のやることだから、恥じる必要はない。報酬系の方が、間違った手段を延々続ける危険性がある。報酬系は飽きとの勝負で、飽きないように工夫し続けることがポイントになる。

恐怖は捨てて受け入れていくことでしか、克服できない。

捨てて行く中で、できることをやっていく。何かをしていれば、必ず新しい経験が入ってくる。実際、重要なのは新しい経験への開放性で、人間はここから成長する。

新たな経験から考えることは難しく、しかし、停滞せずに発展するためには必須のポイントとなる。


先程の対人恐怖の例で言えば、大切なものを害さない人間と関わっていけば良い。新しい経験について開放的であれば、他者批判、自己批判することも少なくなる。次第に普通の人が出来て、自分にできなかったことは出来るようになっている。

時間は掛かるかもしれない、遠回りかもしれないが、そこで得た経験や人間関係は、他の人間が持てない財産と思って感謝すれば良い。

もしかしたら時間が掛からず、簡単な方略を見つけ出すかもしれない。自身の恐怖の核心を理解できれば簡単に見つけられる。加えて環境を変える気になったならば、それはもう容易いことだったりする。


恐怖の核心(自分が大切にしているもの)が分かれば、手段はいくらでも取りようがある。これは精神分析の考え方でも一緒。

恐怖感情を、自分の立場や権威を守ることを目的として使用しているという考え方は、アドラー心理学

否定的感情を価値ないものとして手放すという考え方は、仏教的思想。

大切なものや自分を受け入れて許す、感謝するという観点は、スピリチュアルとか愛とかの考え方。

目的を限定して手段を合理的に選択してエネルギーを集中するという考え方は、自己啓発の哲学。

新たな経験への開放性という考え方は、心理学の外向性との関連、カウンセリングにおける人格発展に向けた新たな可能性への着目という観点、数秘術や象徴学における統合と安定への流れなど。

気質と環境を考慮するのは精神医学と脳科学を参照する。


何にせよ、不幸を背負った人間は、受け入れて、自分のやり方で工夫して生きていくしかない。


ちなみに、人間の最大の恐怖である死への恐怖は、死後の世界(天国)を信じるということで捨てることができる。

その場合、宗教(教義)的影響がついて回るので注意すべき。


報酬系を求める原理は、ラットが一日中餌の出るレバーを引き続けるように、非合理的な生き方が、人間を含む動物には可能だということを意味している。

恐怖を避ける原理は、人間の取る不合理な行動にも理由があるということを意味している。


どんな哲学も、科学も、宗教も、シンクロニシティも、信じていなければ意味がない。

何を信じるかは自由で、数多の誘導のなかで、受け入れて生きるのが、自分にできることだったりする。


どう生きるか死ぬかだけは、自分自身の意志で決めたいものだ。