意識の真相

小さな頃、哲学的ゾンビについてや、世界5分前起源説、物質と意識の連続性から、仏教的な色即是空、魂について考えていたが、結論はデカルトのように「我思う故に我あり」意識のみが信じられると結論付けられるようになった。


しかし、ここにその反証を展開してみよう。

意識受動仮説のように、意識はあたかもペンライトの残像のように、行動が先にあり、意識はそれを後追いしているに過ぎないという仮説がある。

つまり、意識される行動にまつわる理由付けや、感情さえも、脳の速度計の観測機能に過ぎないと結論付けられる。

とすれば、実際は行動のみを観察すれば良く、行動心理学者はそのようにして心を解釈してきた。


アドラー心理学では、感情を道具として使用していると洞察する。つまりは、人間の合理的な理由付けや感情には目的を持った演技として解釈する見方も成立するという。

これを拡大すれば、人間の人格やユングの言うペルソナというものも、一つのまとまりある体系を持った道具に過ぎないと結論付けることができる。実際、人間は場面場面において人格が少しずつ違う。

多重人格障害さえも、根幹となる存在や魂なるものが先にあり、人格を道具として使用しているという見方も成立する。

平易な言葉で説明するなら、人格はその人間の一側面として存在するということだ。言葉にすれば簡単だが、人格が人間の中心でないのなら何が人間の中心なのか、という議題を考えなければならないだろう。ユングは自己(self)と言ったし、宗教家は魂と答えるだろう。アドラーは意志、だろうか。

AIにおいては、まだ人間の特徴検出とAIの特徴検出は異なったアルゴリズムを使用しているようだが、人格体系を持ったアウトプットが可能になれば、そこに見分けは付かなくなるだろう。たとえ意識(自我)という機能が搭載されていなかったとしても。

行動を見ていれば、推論してそこから人となりを想像してしまう。


カウンセリングを行うと、人間の行動を変えることの難しさに直面する。

意識はなかなか変わらないし、意識を変えたとしても行動を変えることは難しい。結論としては、クライエントの「時熟」の手伝いをしているということしかできない。論理的な考え方や合理的な行動を「教える」ということはできるが。


結局、人間を環境に放り込めば、何回やっても長い時間をかけて殆ど同じ結果になるだろう。つまり、環境や、その人と環境との関わり方が重要であり、それが少しずつ変わることによってしか、人間は変わらない。

とするなら、環境を軽視した自己啓発は正しく無理を生ずるもので、体系的な変化が起こらなければ、傍目からは不可思議な奇異なものとしてしか映らない。

もし意識がペンライトの残像なのなら、残像でいくら考えても軌道を変えることはできず、次にペンライトを振るその瞬間に変えてなくてはならない。

こうなると、それは最早反射神経的なレベルの問題になってきて、神経生理学的な変化が生じないといけないということになる。実際、鬱病などの精神疾患や悪い習慣を変えるということは、神経生理学的な基盤の変化を必要とし、ある程度の時間がかかる。

人間が変わりたければ、意識や行動を変えたいと思うだけでは十分でなく、とりまく環境や人格へと体系的な変化が生じなければならない。その点において、宗教や自己啓発セミナーで効果的なものは、効果的であればあるほど、危険性が高いということは指摘できる(つまり恣意的に人格と環境との関わりを変える力を持つということ)。


人間にもし魂があるとすれば、魂は人格や意識、その基となる身体性を利用しているだろう。

行動そのものは身体性を含む環境の因果に規定されており、意識は原因でなく、結果の一つに過ぎない。


また、AIには意識(自我)の機構を搭載する必要はなく、人間の意識もまた、人格や魂に支配されているのであれば、意識の存在理由には揺らぎが生じてくる。

「意識(自我)がない存在」も、十分非現実的な考えとは言えなくなってくる。


アドラーフロイトはエネルギーのようなものとして見たし、魂もまたエネルギーのようなものと言えるのかもしれない。実際、魂などの非物理的なエネルギーが脳内の量子に影響を与えるというモデルは考えられ始めている。

あるいは、神秘主義者は神というかもしれない。スピリチュアルでは宇宙の意志や万物の作用というかもしれないし、天体は途方もない周期性を持ち、占星術は天体の周期性を拠り所として支配星というものを考えている。

さて、面白いことに、仮に宇宙人がいたとしても、地球人と同じように意識(自我)がなければならないという必要性もないのだ。意識を持たないAIのような存在が、宇宙人では当たり前の世界があるかもしれない。


言葉はコミュニケーションに使用されるのであって、必ずしも概念の理解に使用されるわけではなく、頭の中で言葉を発しなくても実生活上で困ることもなく、人格でさえも意識の必須構成要件というわけではない。

私達が思っているよりも、意識やら人格やら無意識やらを、魂やそれに類する存在は利用して使用しているかもしれず、そして上に見てきたように行動にとって意識が必要であるというわけでもない。


という、オカルトのような話が、意識の真相じゃないかと現時点では思った。

つまり、デカルトの言うほど意識というものはさして重要ではないんじゃないか。クオリアの議論も結局、意識の奥にある魂の存在を問題にしている。

意志>魂>身体>人格>意識(クオリア)が図式となる。

ちょうど、「我思うゆえに我あり」はこの序列を逆さまに見た世界観となっている。

今まで長々と述べてきたことは、スピリチュアルな観点から心身二元論の視点をひっくり返してみただけの話である。


本来はどっちでも良いことだ。