感情と物自体と価値

物に対する主観的な感情が価値を左右する。

http://digitalcast.jp/v/11297/


物は同じでも、主観的な意味付けが変わると、価値は大きく左右される。上記のTEDスピーチでは絵画贋作の話や、痛みの実験など、様々な実際例を挙げて説明される(和訳のみ表示すると良いと思う)。

神経学的な感情に関しては、合目的性(怒り感情は相手がわざとと思うと増幅するなど)があるので、おいておく。

さて一見、芸術性がないものに価値を見出すことは間違っているように思える。これに対しての考えをまとめてみたい。


たとえば、博物館に行くと、骨格標本が飾ってあったりする。様々な動物の形態が、骨格の展示によって示される。骨格には進化における動物の歴史が詰まっている。とてつもない自然淘汰と意志とのせめぎ合いのなかで、動物の形態が、生態が形づくられている(それこそcharacteristicに)。骨格標本を見れば、それが現実の世界のものとして眼前に示される。


滅んでしまった恐竜は、そのときの地球の歴史の目撃者でもある。歴史の創り出す骨格標本のなかに、星の記憶を見い出すことができる。

記憶(歴史)に価値を見出すことは、本質的な意志の価値を探ろうとする試みとも考えられる。そのために上記のような現象が生じてくる(本物でないことが判明した途端に打ち捨てられるなど)。


イデアの感性が、意志が物質化されるすがたを描こうとするのに対し、歴史の検閲は、物質と感情との結びつきを端的に示す。

贋作師であるハン・メーヘレンの作品を見ていると、絵画におけるエネルギー(意志)の力の向き(方向)は若干意識して描かれているが、その意志の先に、受け止める物自体(描き出すイデア)がない。彼が追い求めるのは芸術家(フェルメールに憧れる感情)であり、イデアではない。

結局、イデアを感じるには、意志(エネルギー)の結晶として具象化されたもの、抽象化され統合されたものを見るしか、ほかに方法はないのだろう(物自体)。


たとえばクロード・モネは、自然のイデアを捉えるのが上手だった画家だと思われる。フェルメールの絵画からは、神秘的な宗教性が感じられる。

自分が宗教的感情を体験することは、もう命がいくつあっても足りないので、やめておくことにする。


感情的でも、芸術でも、宗教でも思想でも、それぞれの本質から、世界の見え方は変わっているのだろう。