観念論と美

美と宗教と自然について。


意志と表象としての世界を読むと、美(芸術)のレベルとして、

超越的な存在>人間や動物>風景や自然>建築物や職人芸によるもの

の序列とされている。

基となるプラトンイデア論でも、宗教的な連関として魂とイデアは切っても切れない関係にある。


キリスト教圏にあっては、

神>人間>家畜>自然

という序列。

アニミズム(自然信仰)は低俗なものとして否定される。昔、山に登った詩人(名前忘れた)が、その景色に感動するが、キリスト教の教義により、すぐにその考えを改める、という話さえある(近代になるにつれ自然美はキリスト教のなかに受け入れられていった)。

一方、自然に対する感動というものは、人類普遍に存在する(朝焼けに神々しさを覚えたり、夕焼けに郷愁を感じたり、嵐には超越的な何かを感じる)感覚。そうした感覚は自己を超越したヌミノース体験(numinous experience)というが、その体験が基となり神話は作られる。

上記の詩人の例と併せて考えてみると、神話から教義が作られるか、教義から神話(自然)が壊されるかという問題にも感じられてくる。ここではキリスト教の他所の宗教への破壊性を論じることはせず、人間が美しいと思うことと、宗教的な意味での信じることが、重なり合う部分であることを指摘したい。そこには主客の別け隔てのない、世界の感じ方がある。


さて、視点を変えて、身体の知覚的な側面に目を向けてみる。自然を見る際、一般に女性の方が色覚が優れている、とされている。4色型色覚を持つ人も女性の方に多い。女性の視点を通して見ると、男性よりコントラストの強い、ビビッドな世界を見ているように自分には感じられる。ちなみに、4色型色覚を活かして絵を描く女性もいる(画家コンセッタ・アンティコ)。

対照的に、色盲だったと言われる画家として、ゴッホが挙げられる。色盲の真偽は別として、彼の色彩センスもまた、微かな色の違いを感じとり、再現していたのだと思われる。

ちなみに自分の身体はというと、離人感覚(現実感喪失)があり、色盲は無いが、色彩から受ける感受性は無いに等しい。ただ、自然に意志の内在を感じるとき(木の枝の伸び方ひとつでも)、そこに実在する美しさ(イデア)や神秘的な感覚(ヌミノース)に焦点を当てて、感受性を引き出すことはできる。また、他者の視点を介して、世界を見るということはできる。


結論として、

美の本質は自己(理性)と身体を超えた普遍性を持っている。美は表象される因果を超えた実在性であり、たとえば自然への没我的集中を通して直感される。と、言うことができる。

自分には美に貴賎はないように思われる。


プラトンイデア論やユングの神話的解釈を踏まえて美を考察すると、詰まるところ、観念論としての宗教哲学へと回帰することが分かった。