自由意思と世界

量子力学コペンハーゲン解釈では、世界は重ね合わせの状態であり、確率でしか表せないという。

世界が重ね合わせであるなら、さながらパラレルワールドのような世界が存在することになる。存在するとしたら無限に可能性は拡散しているのか、あるいはあるところで可能性は収束するのか、詰まるところ決定論に影響はあるのか無いのか、興味深いものがある。

パラレルワールドの存在は、自分の可能性世界への憧憬を誘導する。しかし、これに対しての論考をまとめてみたい。

 

まず、当たり前でもある自由意思の真相は、「私は意思決定者であり観察者でもある」ということ。

「私」には同一性と連続性があるために、選択(と責任)が生じる。そして、他の選択肢の可能性は「私」では無くなる。このために、「私」は意思決定者である。

そして同時に、「私」は世界を感じ取り観察する主体である。ゆえに観察者でもある。

「私」は意思決定者であり、観察者である。

 

さて、「私」には同一性と連続性があるために、「私」は自分しかおらず、そして一つの選択肢しか選べないと思う。このために選ばれなかった選択肢(可能性)への後悔や、憧憬が生じてくる。

しかし、可能性としての世界は、意思決定者であり観察者としての同一性によって棄却されるべきだろう、とも自分には思われる。そのあたりを考えていきたい。

では、その前に意思決定者であり観察者である基となる根拠はどこに求めるべきだろうか。自分は結局、魂であるように思う。

 

「私」の同一性と連続性において、魂と意識の問題は、切っても切れない関係にある(肉体が魂といえるエネルギーを創造し維持しているのか、魂がイデアの一形態であり、むしろ物質の創造に一役かっているのかは分からない)。

基本的に、意識の中核に「私」は存在する。結局、脳活動だけでは意識の中核の同一性や、クオリアの問題は説明することができない。

魂は脳活動に影響を受け、脳の量子に影響を与えることにより、意識状態と意思の伝達性を成立させると思われる(現時点の科学的観点では否定的な仮説。あってもランダムの影響になるか、ランダムは自由意思ではないことが問題とされている)。

観察者としての「私」の感覚は、魂が中核となり、人格と身体を通して、同一性ある意識のなかで知覚される。

世界の観察者である「私」の同一性は、魂の存在抜きには成立しえない、と考える。

 

意思決定に関してはどうだろうか。この世界には根拠と誘導に溢れている。

たとえば、嫌悪感を間接的に示されれば、政治的な信念を誘導する事は可能であり、恐怖心を間接的に示されれば、強迫的な行動を誘導することも可能である。また、世界を統計力学で説明することも不可能ではないし、進化論的に説明し去ることも可能である。

結論としては、意思決定とは、内的状態と外的状態の総和であり、記述するとしても確率論でしかない、ということになる。

実際、等価選択肢数のように、妥当と思われる選択肢の数が実質的な選択肢であり、それが正しいかどうかということも、本来の問題ではない。また、最も不確かさが均質(ランダム)な状態が、選択肢が最多ということになり、最も自由ということになる。
つまり、「私」の意思決定に主体的な意味はなく、自由は確率論に還元される。ここでも、「私」の同一性と連続性から、反論を考えてみたい。
 
「私」の存在と可能性世界は、両立しえない。なぜなら、「私」の世界は常に一つであるからだ。
たとえば、手術の成功率が50%であろうと5%であろうと、「私」が死んでしまえば、もう片方の可能性は永久に潰えてしまう。反対に「私」が生き残れば、95%の「私」が死んだ可能性の世界は意味を持たない。
「私」の存在により、「私」の可能性の世界は常に一つであり続ける。
 
「私」が選んだ選択肢ーーー確率が高くても低くても、正しいとしても間違っていたとしてもーーー「私」の同一性と連続性により、「私」は選択の責任を引き受けなければならない。
幸福や不幸も、権利や刑罰も、受け入れなければならない理由は、「私」において他の可能性世界は存在しないから。だから責任がある。
 
違った観点から言えば、実質的等価である選択肢がどれも魅力的なものであれば、観察者である「私」には、天国のような世界に思われるだろうし、逆に選択肢がどれも残酷なものであれば、地獄のような世界に映るだろう。
この世界が天国のようであろうと地獄のようであろうと、「私」の世界は自分だけのものであり、「私」の選択は自分だけのものである。そこに確率は存在しない。
 
結論としては、「私」の同一性によって、確率論に奪われた世界は取り戻されるのではないか。
そこには責任を引き受けることにより自由を取り戻す、という逆説がある。
 
 
「私」の世界は常に一つである。
魂を賭け続けていれば、世界は常に主体的で、自由であり続ける。
そのことは忘れないでいよう、と思う。