感情は普遍的価値を持つか

自分が12歳の時に出した哲学的な結論のひとつに、『感情は普遍的な価値を持つ』ということがある。これについて考えてみたい。


小さい頃一人で考えていたこと。

形あるものは壊れ風化し、不変のものは存在しない。外界は離人症(現実感喪失)があって信用できないが、代わりに意識は信用でき、自分とは、「意識」である、と考えていた。

素朴に、意識と感情は切っても切れないと考えていた(思考と感覚と直感も同様)。虚しい世界は望まないように思えた(無常観への批判)。幸福は感情であるため、普遍的な幸福感情に価値があると考えた。

12歳の結論としては、

すべてはバランス(中道)が大事であり、それが崩れていると望んでいないことが起きる(全体性totalityが崩れる)。ただバランスが崩れていることを知る術はなく(無意識の補償作用は知らなかった)、結局、普遍的な幸福「普通」を目指すべきだと思われた。勿論、7,8歳から自発的に生と死について考えていた自分が、「普通」になることはなかった。


これに対して現在の自分の視点から色々と考えていきたい。

まず、「普通」とは相対的な概念であり、純粋にはどこにも存在しない、という点は指摘できる(ただ、「普通」を演じることはできる)。

次に、感情には振れ幅があり、概して幸福と不幸を揺れ動く。感情に振り回されないことを目指すべきという考え方もある(合理性もしくは仏教観的批判)。

意識と感情(体験)に価値が有るとして、VR(仮想現実)との違いはない。ちなみに、この世界が夢でないことは証明できない(これらは偶有性の世界への招待になるとは思われる)。

加えて、実は催眠状態や、簡単に言えば想起体験で得られる感情に生理学的な差はないということが知られている。そもそも感情は、開発された脳回路の発火と神経系に依存している。


感情について、アドラー心理学では目的を持った演技と洞察される。実際、感情は進化論的な合目的性を持っている。

恐怖:攻撃者の更なる追撃を抑制し、自身の手の血流を脚に回して素早く逃げるという行動を誘発する。

怒り:自身の恐怖を抑制し腕に血流を増加させ、目的の為の邪魔者を排除する。

嫌悪:病気が伝染らないようにする。道徳的な見方を強化する。

軽蔑:(主に道徳的に)上位者であることを示す。

驚き:注目喚起の意味を持つ。

悲しみ:他者の援助を得て、自分を癒す。

喜び:自身の善の指標になる。ミラーニューロンの影響によって周囲との相乗効果を生む。


感情は、意識に把握されるよりも早く自律神経系の変化や表情筋を含む筋肉の変化に表れる。認識の構えによっては、ある程度感情の発火は左右される。

表情分析の第一人者であるポール・エクマンは、感情は人類に普遍的で、悪い(不適切な)感情から注意を逸らし、良い(適切な)感情に注目し最大化させるべきとしている。


ユング心理学。感情の内的な原型は感覚器官と神経学的機構にあるが、感情の外的な元型は象徴学的な神話に由来する。その人が全体性に向けた発展性を歩む限りは、普遍的に善い側面と考えるべきと思われる。

補足としては、キリスト教では美と愛が善であり、献身(自己犠牲)は徳であるとされる。


自分が見て(経験して)きた感情の否定的側面を浚ってみる。

感情の否定的側面として、鬱病精神疾患抑鬱と悲しみ感情を体験しており、献身的な「いい人」が自殺に追い込まれる側面が実際にある。感情の破壊的側面は慎重に考えた方が良いと思われる。

自傷行為リストカット)では脳内麻薬(β−エンドルフィン)が生じるが、それによる安堵感情(を求めること)は麻薬中毒者と変わらない。幸福とは脳内麻薬の為せる業でもある。

沢山の感情を体験し、音楽などで外に向けて吐き出す(カタルシス)。これは繰り返しになるだけでは生産性がない。カタルシスが真に幸福なのかという疑問もある。追求する中で芸術性を発揮していく必要があると思われる。

その他、ストーカー行為やモラハラをしてくる相手との交際経験からは、感情のジェットコースター的な側面が強く、一層疑問が深まった。


心理学的側面について。内観法では感謝がどうやら精神衛生に良いこと、発達理論からは、感情を受け容れられることで実存感が固められ、成長と発展に向けて動き出すということが知られている。この観点では感情に価値があるとするよりも、成長か発展を促す受容を目指すべきとされる。

しかし現実には、自分の意思次第だと強調したくもなる。実際、全受容を体現してみても、合理性や主体性には本人の意志によるところが大きい(勿論、受容される経験が段階的に必要な人はいる)。


合理的に、主体的に生きるが為に、自分の感情の良いも悪いも浮かんだ瞬間にすべて抹殺するという方法がある(自分で考え実践した)。内的な世界を殺し、感情的な批判をしている暇があるなら「今と目先(と未来)」を考える。これは勿論、合理的にはなるが、主観的な価値は消失し、記憶の価値も薄れていった。

恐怖も喜びも感じなくなり、六本木で危険な人に対しても丁重にもてなすことができるようになった時には、目的の為に自分も他人も危険に曝すような自分になったので、この方法はお勧めできない。辿り着いたのは幸せとはほど遠い世界だった。

そして自分は、生きることに疲れた。


まとめるならば、感情には神経学的基盤があり、合目的性がある。

感情には肯定的な側面だけでなく破壊的な側面も存在する。

元型論的な発達理論は感情の肯定的な側面であり、喜びの連鎖は善となる。

ただ、感情は受け容れるだけでは主体性がなく、合理的に抹殺するだけでは幸せから最も離れた世界に辿り着く。

ということ。



自由意思は、観察者と意思決定者の同一性から成立すると自分には思われる。自由意思の観点から考えて結論にする。

意識における「私」とは観察者であり意思決定者である。

感情が神経学的な機構に支配されていても、それを意識において観察し、「私」は感情に触れ、引き受けることができる。感情の奔流のなかでも、「私」は実質的な選択肢から、意思決定をする自由がある。勿論、感情を抹殺し見ぬ振りをすることもできれば、幸せや悲しみを含む多くの感情を受け容れることもできる。


そして、「普通」は目指すことはしなくても良い。それは「私」ではないから。


もう多くは望まない。

今は猫と暮らすことにとても憧れてる。