小説『羊と鋼の森』を読んで

2016年本屋大賞を受容した『羊と鋼の森』が手に入ったので、昨今の日本の風潮と重ねあわせて若干の分析と感想を述べてみたい。


導入部分を、稚拙な文章力で簡単に要約する。

主人公である17歳の「僕」は、期末試験の放課後、先生の言伝で「調律師」を体育館に案内してほしいと頼まれる。誰もいない静かな体育館に調律師の男を案内し、帰ろうとする「僕」は、調律されるピアノの音色から、薄闇の乾いた秋の森の木々の風と匂いを感じる。調律とともに徐々に鮮明になっていく森の景色に、「僕」は調律師の世界に入ることを決意する。


ピアノは弦(鋼)とフェルトハンマー(羊毛)によって発音される打弦楽器である。ピアノの音に鮮やかな深い自然の景色(森)を見ることが印象的な作品と思う。

作者の文体はイメージ思考の(音声ではなく映像を浮かべ思考する)人の特徴がよく表われている。主人公の思考と会話に豊富なイメージ表現を見出すことができ、イメージ思考の特徴である超個人的でマイペースな努力家であるところも、主人公の性格と重なっている。登場人物も皆キャラクターとしての役割分化があり、本作の平和的であり魅力的な雰囲気を醸し出す一因となっている。


以下はユング心理学的な分析と感想。

主人公の「僕」は、試験があっても人に頼まれやすく断りづらく、かといって本当に大事なことは誰かがやってくれるという、良心的な日本人の典型的イメージ。

「僕」がいてもいなくても、木の実は土に還り、山々の自然が繰り返されることに安心感を覚えるという感性からは、日本の地母神の強さと仏教的な無我の死生観が簡単に示されているように思う。


さて調律師としての「僕」は、実家の山を出て、調律の仕事という心像の森の世界へと歩んでゆく(ユング心理学では「森」は無意識を示し、西洋的な自我確立の入口として意義深いものがある)。

グランドピアノの音を「いい音」にすることが調律師の仕事であるが、「いい音」はお客さんによって違う。なにが正しいのかを自問しながら、調律師の仕事と、先輩とのやりとりを通して少しづつ考えていくのが、物語の本筋となる。


丁度、ピアノのイメージは西洋的な「心」のイメージとして、適当であるように思う(不要な倍音の少ない精緻な概念化と規律的な美しさ、更に音と感情は関係が深い為)。

落ち着きある調律師の男性に方向を示してもらいながら、心(ピアノ)の仕組みを「いい音」に調律していく行程は、西洋の真善美もしくは「審善美」の神秘性を追求していく感性と似ている(実際、調律を通して「美しい」「正しい」と「調和」をずっと考えていく作品でもある)。


ちなみに、秋もしくは冬という季節の舞台設定は、未だ感情や意志の存在を内に探っている段階であり、まだ外界には表現できないことを示している。春になるにつれ、芽吹きとともに意志は外界に表現されるようになっていく(ユング心理学ではこのようにして象徴から展望を読む)。


文中に出てくる「奇跡」のしもべと、タイトルの「羊」のイメージとに宗教的な重なりを見出すことができる。このような宗教的(もしくは神話的)なモチーフはさりげなく散見される。

また、ラの音(440hertz)が世界共通語を比喩として表現されるのも面白い感性と思う。これは世界への繋がりとしての希望を持つ。

一方、「知らない」からその音が良いと思うのか「好みの問題」なのか、「言葉」を重視すべきなのか感じ取るべきなのかという会話は、現代の日本人の自己主張を押しつけるべきか、調和を重視すべきかと迷う感性を非常に上手く写し取っているエピソードと思う。


今作では初め、母性(や身体)と関連した生命力と意志が美として描かれる(「祖母の入れてくれたミルク紅茶」や「生れたばかりの赤ちゃんの眉間の皺」が美しいなど)。

あらすじの詳述は避けるが、後半では、太母の死を契機に影(兄弟姉妹)との和解(相互反転)が生じ、死と再生のモチーフを通して、それぞれがアイデンティティを確立して調和していく様が強い「意志」として描かれることとなる。


太母の死に関連して、この作品では太母との直接的な対決が描かれていないことは指摘したい(西洋のヘンゼルとグレーテルでは森の奥でお菓子の家の魔女を退治することが重要な意味を持つ)。

また、作中では、「自然が神様だった」という表現もあり、太母(great mother)との親和性が高いことを象徴している。

これらのことから、今作ではおそらく完全な自我確立を果たさぬまま、西洋的な審美眼の感性を得て一定のアイデンティティ(役割)の獲得を経る、ということが主題となっていると思われる。そのことが森の入口のイメージとして集約的に表現されていると考えることができる。


実際、90年代などと比較すれば、日本の西洋化はここ20年でかなり進んでおり、単なる知識としてではなく、実感の伴う感性として西洋化を感じる兆しが現代の日本人には現れてきている。

西洋的な自我確立を完全には果たさず、西洋の感性を取り入れて調和することが、現在の日本人において一つの適応的な形として見られているのかもしれない。


この作品の主題をまとめるなら、

「西洋的な心の調律をして(秩序づけ)強い意志のもとアイデンティティ(一定の役割)を獲得し、調和的に他者へ福音(と祝福)を響かせる」

というテーマになっているように思われた。

最初は日本的な「地」のイメージ(山々など)が強かったのが、終盤になるにつれ複数の登場人物とともに西洋的な「天」のイメージ(星座など)が強まっていくのは印象的であり、感動的でもある。

西洋的な感性(審美眼)への接近と日本的な調和性の錯綜と融合が主題となる、興味深い作品に思われた。



勿論、実際はこんな観念的で概念的で宗教的(神話的)な話ではなく、柔らかな感性とイメージに包まれた平和的な小説なので、誤解されないでほしい。

流行の書籍から、風潮としての分析を試みた。勿論、通常は分析などという野暮なことはせず、文学として楽しむことが大切と思われる。


自身を振り返ると、音楽経験はバンド活動ほどしかないと思う。その頃は音の違いを聞き分けることもできず、嵐とも言える音の奔流のなかで、音を重ねるように演奏をすることが、ただ楽しかったことが思い起こされる。

今は年齢を重ねて、音に呑み込まれないようにすることで、全ての楽器の音を同時に聞き分けられるようになった。しかし今度は単なる音刺激の分解脳といった感じで、音の持つ魅力というものはもうずっと、感じられなくなってしまった。

この作品に表現されるような「夢のように美しく現実のように確かな音」というものが実在するのなら、いつか一度でも聞いてみたい、と思った。


最近の自分のテーマは「感情の語彙を増やす」ということのように思うが、なかなか難しい。

批判は人間性を規定してしまうということは分かっているのだけれど、感情を味わおうとするとやはり両面に触れなければならない。

まだまだ道は永いように思う。