権力への意志とハラスメント

力への意志の悪辣な側面について、DV関連と過酷労働の二点から、経験的に知り得ていることを書く。

「権力への意志」はアドラー心理学の鍵概念で、劣等感を補償する為の原動力として働く意志のこと。アドラーは、目標を達成する為に健全に問題に取り組むべきであるとし、不健全な行動の使用によって問題を解決しないことは劣等コンプレックスとして批判した。

今回は、「権力への意志」の不健全な領域に主に焦点を当てていく。苦手な人は読んではいけない。

 

DV(domestic violence)と権力への意志

DVの関係は、権力への意志による共依存関係と解釈できる。

加害者は暴力の使用による権威関係の構築を目的とする。暴力の後に加害者が謝る(DV加害者の病的傾向としてよく見られる)姿を見ることで被害者は精神的優越を得ていると解釈される。

相手の姿に肉親の姿を重ね、復讐している場合も多く、DVの共依存関係は非常に根が深い。従って、第三者(専門家)を入れるしか方法はない。

DV加害者は自己愛性人格障害を併発していることも往々にしてある。自己愛性人格障害マキャベリ知性において、嫌悪感情と対象(この場合パートナー)を結び付けることによってパートナーの「自己嫌悪」を誘導する。自尊感情の操作によって加害者は被害者よりも「道徳的」優位に立つ。

進化論的には、嫌悪感情を抑制して世話をすることは身近な大切な対象にしか起こらない。従って、被害者が嫌悪感情を我慢することで加害者を身近な大切な人だと「錯覚」することもある(ex:ストックホルム症候群)。

自己愛性人格障害のパートナーとなった場合、自尊感情が著しく低下することも多く、洗脳といえる状態になることも少なくない。結局、利害関係のない第三者と協力して関係を解消するのが唯一の解決策となる。

 

とある(黒い)企業が用いるアドラー心理学

課題の分離、賞罰を禁止、役割(分業)を徹底、共同体への貢献(救世主となることは避ける)、再教育と勇気付けの概念から考察する。

「課題の分離」の悪例として、現実的に実現不可能な課題を部下に押し付けることが罷り通ることがある(全人格労働に発展する負因)。西洋でこうしたことが起こらないのは、業務(役割分業)が契約書に明記されている(契約と労働の思想がある)からである。

また、救世主となることを避けることで自発的な手助けが抑制されるケースがある(余裕を見せると仕事が上乗せされる職場なら尚更)。勿論、潰れる前にフォローする程度の柔軟さは必要と思われる。

こうした組織において上手に立ち回るには、上司への要領を得た責任移譲と問題解決、部下への業務の割振りと教育スキル、「空気を読む力」が要求される。

労働環境はピンキリであり、当然ながら潰れる程の「全人格労働」には注意し避けるべきと思われる。

 

共同体への貢献ができていないことの指摘について(教育と勇気付けの曲解)。これはややもするとパワハラモラハラに繋がっていく。

余談だが、「教育」では、説教の時間の長さと効果の程は反比例する。「ポジティブ+ネガティブ+ポジティブ」なフィードバックのサンドイッチを通して本人に「気付き」があるのが最も有用である。

共同体への貢献が出来ていないことへの叱責の裏に、「権力への意志」が働いている場合がある(アドラー心理学では既に賞罰禁止にひっかかってはいる)。パワハラ上司は例外なく「できない部下」への周囲の評判を下げておく働きかけをする。ターゲッティングされた部下の評判を下げておくのは、「教育」する際に悪者にならないようにする、つまり自分の権威基盤を盤石にする為の「権力への意志」が働いている(愚痴や陰口は権力ゲームに繋がっている)。

職場に自己愛性人格障害もしくはサイコパスが紛れ込んでいるケースでは、心身ともに苛烈を極める(嘘の情報操作や啀み合いが生じるので)。結果、とある企業では「教育」に熱心なようでいて、その実、権力ゲームの泥沼と化している場合がある。

 

アドラー的に見えて、影で権威主義的な力が働いている人物の特徴として、

「調整能力が高く冷やかな性格で、権威の押し付けには見えないが役割の責任を強調する指導をする、上司からは教育への理想を持っている熱心な魅力的人物と評価されている人」

とすることができる。実際は、角が立たない攻撃をするクレバーさと上昇志向(権力への意志)からこうした類型(パターン)が生じてくるので、人格者ということではない(人格者である必要もないが)。

 

以上、アドラーの「権力への意志」を中心にモラハラパワハラについて分析をしてみた。勿論、アドラー心理学の「権力への意志」は分析の為の概念ではないので、このような分析をすることに意味はない。また、アドラー心理学は未来志向の前向きな心理学なので、誤解されないでほしいと思う。

ただ、学校教育やコーチングには問題無くても、実質縦割り組織である企業運営にアドラー心理学を適用するのは、危険であることは指摘したい、と思った。

 

 

東京では色んな人に出会った。

自己愛性人格障害もしくはサイコパス傾向の人」「借金数千万抱えている人」「ガチガチに宗教組織にハマっている人」「社長と繋がりがあって女好きな人」「帰国子女でバイリンガルの人」「貞操観念ゼロの仕事をしてきて今はイラストレーターを夢見てる人」「中卒で100万貯めて上京してきた人」その他、色々。

東京には自由がある(勿論、地域差はある)。他人は他人であって、地獄も経験したけれど、未だ東京のどこかに住んでいたいな、と思う。長生きはできないかもしれないけれど。

自分の人生の矜持は「どんな人間の人生でも肯定する」ということ。その結果散々死にかけている。

長生きできるかは分からないけれど、貫いて生きていきたい。

悪辣な人間に成らず、厭世観を持たず、生きていきたい、と思っている。

自分の意志の力と、内的な世界の両立の道を目指すべきように思う。