マインドフルネスと音楽について

マインドフルネスと楽器の聞き分け方について。
録音された音源から楽器ごとに音を聞き分けることは、意外と難しい。ここではマインドフルネス(もしくは瞑想)を用いた聞き分けのコツ(方法)を紹介してみる。

マインドフルネスとは、Google社員やジョブズ氏が実践していたことで有名な瞑想法。禅などから着想を得ているが、宗教色は廃してある。現在では科学的な研究が盛んとなっている。
内容としては、座った状態で目を閉じ、何も考えずにゆっくりと腹式呼吸することに集中するというもの。脳内ではデフォルトモードネットワークが抑制され、休息効果だけでなく創造性やストレス耐性、集中力が向上していくとされている。
ただ、多動傾向の強い人の場合、無になることで創造性が消失してしまうケースもあるという事なので注意が必要。

以下はマインドフルネスを用いた聞き分け方法の説明。
この方法は瞑想もしくはマインドフルネスによって、小さな音や、ありのままの世界への「気付き」が増すという特性を利用する。
まず何も考えない状態で、呼吸に集中する(瞑想状態にする)。
次に、その状態で音源を聴くと当然ながら「煩い(うるさい)」と感じられるだろうと思う。そこで雑音の状態として聞こえる音刺激を、各楽器ごとに抽象的にイメージして整理をしていくことをする(それぞれの楽器の音を知っているとイメージがしやすい)。
空間に楽器のイメージを定位させていくと(絵を描くように)、最終的に全ての楽器の音を区別しながら同時に聴くことができるようになる(ただし歌詞などは頭に入らなくなる)。
応用すれば、もう一つの楽器のみに集中して演奏の繊細さを感じ取ることも簡単になる(マインドフルネスの集中力の応用)。

自分は思考を殺すことを繰り返す中で、マインドフルネスのようなものに辿り着いた。結果として音を聞き分ける能力が上がったので、備忘録として書き留めておく事にする。
きっと書籍を漁ればマインドフルネスと音の感受性について書いてあるものは見つかるのだろうけれど、少なくともネット上には転がっていなかった。役に立つものかどうかは分からないけれど、誰かの何かの為になれば良いと思う。

ちなみに、なぜ録音された音源は聞き分けが難しくなるのかと言うと、おそらく人間の自然な仕様だと思われる。
「カクテルパーティ効果」のように、普通は聞きたい音だけを聞いて、他の音は背景もしくは雑音として処理される人間の知覚機構が存在する。従って、音刺激全体を一旦(雑音として)知覚して各楽器ごとにゲシュタルト(図となるもの)を再構成しなおすことで、却って明瞭に全体の音を捉えることができるのだと思われる。
勿論、指揮者やプロの演奏家はこんなことをせずとも楽曲全体の音を聴くことができて、更には自分のイメージ通りの音を演奏した上で周りの音との兼ね合いはどうかということもイメージしている。

ついでとして、バンド形式と役割分業(各パート)について、書きたいので雑感的に知り得ていることを書く。非常に面白くはないので苦手な人は読んではいけない。
バンドはボーカルとギター、ベース、ドラムス、追加するならばシンセ(ストリングス)とピアノまたはアコースティックギターが基本的な構成となる。
ボーカルはメロディーと歌詞を歌い上げる。余談として、歌詞は音楽と言葉の両方の脳領域で処理され、単純な言語とは違って聞こえているらしい。ちなみに歌が上手い人はブレスに厳しい。
ギターは楽曲に色を重ねていく。コードやアルペジオ、多彩なエフェクトをかけて楽曲のカラーを決定する。ちなみにギターが上手い人は機材に凝りやすい傾向がある。
ベースはリズムとコードを両立する。ドラムのキックやギターの低音部の音を貰ってまとまりあるグルーブを生み出す。ライブ演奏の安定感と生命力はベース演奏に掛かっている。ちなみに上手い人はピアノが弾けたり、コード理論を知っていたりする。
ドラムスはリズムの大枠を用意する。腕と足を最大限に操って百分の一秒単位のリズムと音によって構成物としての形を与える。ちなみに上手い人は近くで見ると動作自体が美しかったりする。
シンセ(ストリングス)は楽曲の意志を方向性として指し示す。シンセが入るだけで、表現できるバリエーションの幅は大きく拡がる。
また、ピアノやアコースティックギターは音が聞こえなくなりがちであるが、コードを鳴らすことで得られる音の開放感は意外に大きいと思う。

各パートに目立つ目立たないはあるにせよ、それぞれの役割に貴賤はない(勿論能力の差はある)。自らの役割を担いながら、調和して、音を際立たせ楽曲を作っていく。
そして楽曲が共感を生むことで、世界に理解者は増えていく。そう考えると少し、世界が優しくなった気がする。

自分が思うに、芸術の普遍的な感動は、意志によって世界が作られていく自由があるということ(カバラでいう創造界)。
現実の世界では物理的な豊かさ(資金力)を背景にスポンサーがついて、感情にまつわる優越性(外面的魅力やブランド)が売り物になっている。献身的なファンや活動的な支持者が支えている場合もある。
それが消費社会の正しい在り方なのかもしれないけれど、私は「私」であり続けたいと思う。
自分のなかにこの世界の汚濁たる部分があるにせよ、それは諦めて、善の連鎖を繋ぐことを目指して生きたいと、今は思っている。


音楽について語ることはスポーツについて語ることのような茫漠とした難しさがある。

他に書きたい事といえば、東洋楽器は倍音成分が多く、西洋楽器は純音が抽出されていることや、東洋人は息を合わせることを得意とするのに対し、西洋人はリズム感と音程が良くて、これは文化と言語に拠っているとする話とか。
もしくは人類学では言語より先に音楽があり、社会集団の結束に役立てられていたこと、より遡れば胎児の世界の音が低音部の世界であり、より本能的であるとする話。
高音部が旋律や和音に重要な役割を担っており、クラシックを好む人や低音の強いダンスミュージックを好む人の性格的傾向に差異があるという話。
果ては猫の為の音楽が開発されていることなど、書きたいことはたくさんある。けれども、まとまりそうにもない。
音も感情も猫も、まだまだ知らないことが多くて、思い通りにはならないもの。
頑張ろう。


追記:7/7.0:00加筆修正しました。