時代とコンステレーション

久しぶりに記事を書こうと思う。

時代について考えたことを簡単に総括していきたいと思う。


まず、日本の風潮の変遷について。

1990年代以前、昭和の時代は、日本の“家制度”が解体された時代であり、“家=仕事”が結びついていた社会から、“住む場所も職業も選べる時代”に移行した。ただ、実態としては“会社=家(仕事)”の価値観が根強く、経済成長と終身雇用制度の中で、日本的な心性(母性的社会)を残したままモノが豊かに溢れていくようになる時代と言える。

1990年代になると、バブル崩壊に伴い不景気ではあるものの、終身雇用の価値観は未だ根強いものがあり、『言いたいことが言えない世の中』ではあり続けた。1999年にノストラダムスの大予言があり、終末論を踏まえたオカルト的な発想や作風も好まれた。美しさの中にどこかカタストロフを含んだものが散見された。

2000年代に入ると、ミレニアムを迎え、『世界は簡単に滅ばない』という事実のもと、平和的な作風が好まれる一方で、攻撃的・破壊的もしくは暴力性をテーマに(主に)人間関係を描く作風が多く生まれてくる。KYという言葉が流行語になり、『空気を読む』という語感に攻撃性が伴うようになる。『空気を読む(察する)』という90年代からの日本らしい名残を残しつつ、暴力的・性的なアグレッション(攻撃性)が表面化し、もがきながら西洋的な自我を確立しようとする試みがなされた時代かと思われる。

2010年代に入ると、震災に見舞われ、日本特有の倫理観(外国に逃げるという選択は難しいので、“相互扶助の歴史的担保による貸借関係”を確認するように慈善行為を行う)が顕在化し、良心ある『日本らしさ』が持て囃される。一方で、終身雇用がないことが前提とされる時代に入り、『仕事と人間関係は自分でつくるもの』という価値観が一般的になる。併行して、SNSが台頭し、“優れた価値観や美意識を発信・表明できること”が理想視され、若者の間で陽キャ陰キャという言葉が流行する。単純な暴力性は知性を欠いたものとして身を潜め、“発信力”を持った自己表現・自己主張ができることが魅力とされる側面が際立つ。

2020年代に入り、コロナ禍に入ると、NetflixYouTubeが強大な動画メディアとなり、“価値観の多様性の承認”と“論理力と倫理観の両立”が為されているものが、理想視の前提となる。つまり“(旧い)価値観の押し付け”がなされないことと、“合理的・論理的に相手を説得できるが基本的には良心的であり善良である”というタイプの人間が好まれる。おそらく今後は、『統合性をもっている』と見做されることがこれからの時代必要とされるだろう。


余談として、教師というものについて。

昭和の時代は、教師というものは“(目上の立場の者が)教えてやる”という恩を生徒に与えているものであり、生徒側が恩を仇で返すような行為をした場合は、謝りにいかねばならないものだった。“恩師”という言葉にも重みがあり、教師は尊敬の対象と見做されるものであった。一方で、『恩の貸借関係』という上下関係が構造としてあり、いじめ行為をする生徒がその辺りを要領よく立ち回る(教師に“教えて頂いた”ことは目の届く範囲ではきっちりやる)ことが上手な生徒であれば、いじめた方の問題は看過され、いじめられっ子が問題児とされるパターンが多く生まれやすい土壌があった。

時代が変わり、終身雇用制が崩壊すると、“実力主義”という価値観が台頭し、『勉強は塾で学ぶ』という姿勢が一般的なものとなる。そもそも、個別指導もしくは能力別のクラス編成ではない構造上、学校での教科学習の効率は悪い。結果として、保護者・生徒のニーズ上“(先生に)教えて頂いている”という恩を感じづらくなる状態が生まれやすく、教師の権威は失墜する。教師の労働環境もブラックであり、現在は存在意義を問われ直す時代に差し掛かっている。


心理学について。

河合隼雄によると、日本の母性社会と西洋自我(+科学)の矛盾が大きなテーマとなっていたが、前述の社会情勢の変化により、日本人の見かけ上の西洋化はより一層進んでいるといえる。少なくとも、『意見を主張する』という態度は、アグレッションの変遷(暴力行為から言葉での論理的表現へ)を含めて分化され、それなりに許容されてきていると言える。とはいえ、未だ“押し付けにならないように主張する”ということが暗黙裡の前提であり、倫理となっている部分に、日本の衝突を避ける文化の名残が散見される。

河合の時代は、“因果律を超えた見方”として“コンステレーション(布置)”を重視し、“自由にして保護された環境”を整えながら、因果律を超えた“創造的な解決法”を本人が見つけることを方法論として用いられていたが、現代では本人を取り巻く環境そのものを変えてしまう方がてっとり早く、問題が解決されるように思う。生活保護まで視野に入れて考えるのであれば、変えられない環境はなく、ネット環境の普及により新たな人間関係にも繋がりやすい時代になっている。翻って、確たる関係性がない分、ソーシャルサポートをいかに作り、実感できるか否かが問われる時代となっているように思う。

また、(科学が代表する)“因果律的な見方”も、脳科学や論文を基にしたメディアや記事が台頭するようになり、検索やアクセスがしやすくなっている。『マインドフルネス』を筆頭に『非認知能力』や『レジリエンス』が注目されるなど、以前とは異なる科学観が受け入れられるようになっている。科学的とされていた(認知)行動面を扱う心理学においても、できるだけ環境変数を大きく捉えて現状を分析しようとする流れがあり、個人的にはユング心理学の“コンステレーションを分析する”態度に近づいているようなイメージを私は持つ。

いま自分が仕事にしているのは、“コンステレーションを分析し、自身もその中に入りながら環境変数を操作することで、本人に創造的な解決法を見つけてもらう”ことを行なっているかもしれない。

当たり前のことだけれども、繋がらないと思っていたことが、繋がっていくことがある。まさにコンステレーション(星座)である。また、星も動いていく。


星座も時代も変わりながら、自身も変わっていくことは変わらずに分析したいと思う。