誘導と嘘の分析について

メンタリストDaiGoのメンタリズムが心理学を使っていると聞いたので分析してみる。

今回は、主に誘導と嘘の見抜き方の話になるので、あまり好まない人には面白くないかもしれない。

 

メンタリストDaiGoという人物について。慶応大卒、人工知能関連の研究室に在籍していたとのこと。ノンバーバルコミュニュケーションや現代催眠、社会心理学を含む広範な心理学を援用したパフォーマンスや公演、書籍の執筆などの活動をしている。ちなみに猫を飼っている(重要)。

速読が得意で1日に興味のある本を10冊や20冊読むとのこと。乱読傾向や速読法には少なくとも多動性の傾向が見られるように思う。有から有のアイデアを次々に生み出すところも多動傾向の人の才能といえる。

 

DaiGoのメンタリズムは、主にフォーク曲げなどのマジック的なものと、選択の誘導と分析を用いたパフォーマンスとに分けられる。

今回は、後者の選択の誘導と分析について考える。

 

パフォーマンスでは、選んだものを当てたり、物や情報を隠し持っているか、持っていないかを当てたりしている。

選択の誘導方法は以下の通り。

1.選びやすい確率

セッティングについて。全くのランダムに見える選択肢も、そもそも確率に偏りがあるものが多い。例えば同じようなカラーボールに見えて目立って見える「刺激色」や普段見かけないトーンの「変わった色」など。主張が強いもの、もしくは一つだけ特異なジャンル違いのものは選びづらい。最もニュートラルには、公共性の高いものか、自己主張が強過ぎず浮いて見えるものが選びやすくなる。

置き方や色の配置の組み合わせで、選びやすいものに誘導するのが基本的な考え方。

 

2.「自分のもの」と「自分のものでないもの」

選択について。

基本的に、自分と関連するものは選びやすく、自分と関連しないものは選びづらい。簡単に言えば、「自分のもの」と思っているものは選びやすく、「自分のものでない」と思っていると選択しづらくなると思われる。選びやすいものは例えば「自分の好きな色」「使い慣れたもの」「セルフイメージに近いもの」などがある。

広告やショッピングなどを考えても、やはり自分と関連しないものや縁のないものは圧倒的に選びづらかったりする。いかにその人にとって良い文脈で関連付けて関心を持たせて注視してもらうかが、効果的な販売促進に不可欠となる。

話を戻すと、「自分のものでない」ということを相手に思わせれば、選びづらくなることを誘導できる。例えば高く持ち上げてみせるとか、大きな音を立ててみせるとか、腕や手や物で覆っておくなど(心理的リアクタンス)。ちなみに利き手でない手で選ばせるのは、「奥の方にあるもの」「安全なもの」「公共性の高いもの」を取りやすくなる確率を上げていると分析できる。

周囲の人との協調運動(ミラリング)が見られる人はマジョリティに勧められる方向に素直に従いやすく、一方、腕を組むなど敵対的なボディランゲージを発している人は「自分で決める」という余地を頼りにして選択する。心理的リアクタンス(反発)を提示して反発の無いところで選ばせたい方向に引寄せていくのが基本的な方法。

 

3.言葉による誘導(暗示)

言葉による暗示は現代催眠の技術に拠っている。例えば、専門用語の羅列や複数の選択肢を提示して迷ったところに暗示を差し込む(混乱法)。一つの単語を連想や語調で強調したり弱めたりして印象に残すほか、視線が固定化されるところに印象に残したいものを見せたり言ったりするといった手法。

補足として、周辺視野に暗示を提示する(プライミング)、嚥下時や驚き(surprise)時に暗示を差し込む、触れた瞬間や特定の音、好き嫌いの視覚領域に暗示を差し込む(アンカリングやアセンブリ)など。ミラリング反応の利用やヒューリスティックな連想(潜在意識は複雑さより簡単な解釈を求める傾向)も現代催眠の領域に思われる。

結局、催眠に掛かっているかは外からは分からないので、どこに心理的反発を提示し、どこに引寄せる力を提示するかを意図して喋っているかが大切と思われる。心理的反発の提示はあからさまに、引寄せる場合は控えめだが心地良く印象に残る感じにしている。

 

4.数字の意味

基本的に1~5までの数字を選択する場合、先頭から最後尾という考え方をした方が分かりやすい。例えば、講堂や座席でどこに座りたいかなどのイメージに近い。

1と5は自己意識が強い人で、先頭(リーダー)に立ちたいか一番後ろに立ちたいかという意味と同じ。

3は最も真ん中なので、輪の中心にいることを意識している人もしくは子どもっぽい心理状態の人が選びやすい。

2と4は中途半端な位置なので、3に比べて目立ちたくない人が選びやすい。2は先頭(リーダー)に近い位置でやや積極的であり、4は後ろから厳しく見ていたい人が選びやすい。

ちなみに象徴的には、1.個の自覚、2.交流と対決、3.子どもと可能性、4.統合と安定、5.自由と破壊となる。

 

5.視線と注視時間

視線や注意の選択は眼窩前頭前皮質の機能に拠っている。基本的には嫌悪するものから目を背け、好ましいものに目を向ける。基本的な考え方としては、注視時間が長いものほど選択されやすい。

注視時間を長くしたり、最後に注視するように操作すると、主観的により好ましいと錯覚するということが実験では明らかにされている(ex:カスケード現象)。

視線誘導の方法は、こちらの視線やアイコンタクトによるもの(驚き表情で指示するとより確実)、目印や線で指し示すなど。もっと高度にしたければ重心を意識すると良い。これらは広告では使いやすいけれど、パフォーマンスではあまり使われていないかもしれない。

 

 

嘘を見抜く方法について。

基本は表出されているもの(expression)の解釈と、質問に対しての反応を反証検討することによってなされる。さらに周りの雰囲気や緊張感の増減を読むことで精度を上げる。

1.微表情(micro expression)について。

①怒りは、眉が中心に寄る、唇が結ばれ薄くなる、鬼の形相になる。

集中している時や話が難しいときも眉間に皺が寄る。緊張しているときも唇は結ばれることに注意する。

②嫌悪は、眉から鼻と口元にかけてが縦に寄る。目の下がひくつく。

「嫌だな」と思った瞬間に出るので、理由を考える必要がある。左右どちらに反応が出たかでその人にとっての意味が違うこともある。

③侮蔑は、片方の口端が上がる。

当てが外れていたり、自分が(道徳的に)優位だと感じた(思いついた)瞬間に表れる。この表情の次の言葉は上位者の余裕で仕掛けてくるので注意を要する。

④恐怖は、目元は驚きよりも大きく開く。頬が横にひきつる。

余談だが、サイコパスが認知不可能な表情。日常やパフォーマンスで普通見ることはない。

⑤悲しみは、顔全体が感情的に動く。口端が下がる、眉が八の字になる、瞼が下がり目元が淋しそうな色を帯びる。

目元から読み取りやすい表情。眉を上げて主張を訴える癖がある人もいるので注意が必要。

⑥喜びは、顔全体が感情的に動く。口端が斜め上、頬に向けて引っ張られる、眉が山の形になる、目尻に皺が入り目元が嬉しそうな色を帯びる。

目元の眼輪筋を見ると作り笑いかどうかは判別できる。意外なことに慰めの表情も同一の表情となる。傷付いたときや悲しいときに自分を慰めようとして表出されることがある。過度なプレッシャーからの解放で表出される場合は直前までにプレッシャーが高まっていたと解釈する(面白いことを言った訳ではないのに笑った場合)。

⑦驚きは、目元が開く、口が開く。恐怖と異なり感情的には中性的。

基本的には周囲の人間に対して「注目せよ」という意味がある。分析が当たっていて関心したり興味を示してきたりすると口が開いてくる。

 

微表情はほんの短い時間(0.5秒未満)しか表出されないので、あまりに短いときは「どの部位が」「どの方向に」動いたかで判別する。慣れてくると表情に対してアテレコをしていると先に相手の言う言葉(感情内容)が読めるようになってくる。

表出された反応に対して前提条件を頭の中で差し替えて真偽を反証検討する。相手の性格だけでなく状況も理解していないと自分の思い込みで読み違えることになる。

 

2.緊張のグラデーションを読む

闘争-逃走反応が賦活されると、自律神経系の興奮が生じる。嘘をつく緊張による呼吸と心拍数の低下や変な汗(皮膚電位反応)を計測したり、眼の周りの血流の熱変化を検知する嘘発見器などがある。現場では当事者しか知り得ない情報(凶器など)をぶつけて特殊な反応があるかで絞っていくとのこと(隠匿情報検査)。

アナログで行う場合はプレッシャーがかかると筋緊張が生じることを利用する。肩や腕や姿勢、首筋や顎周りから表情の緊張を見たり、実際に触って動かしたりすると分かりやすい。

脅威(真実)が近づくにつれて緊張は高まり、遠ざかるにつれて緊張は下がり余裕が出てくるというのが基本的な考え方。従って闘争-逃走反応が賦活されるように挑発やプレッシャーをかけると反応が顕著になり分かりやすくなる。

自分が近づいたり遠ざかったり、選択肢を近づけたり遠ざけたりして緊張の度合いを読む。読まれるのではないかというプレッシャーをかけられていると、肩が上がり首筋から顔面にかけて強ばりが生じる(集中する為)。脅威が二番目に近くにあると緊張を和らげる為に唾を飲み込んだり舌を動かしたり、自分で顔や身体を触るようになったり、硬直したり顎を上げたり、逃げたそうに身体を揺らしたり、目線が揺れて周りを見たり背中を丸めたりする。決定的なものは緊張(プレッシャー)を遠ざけてみて余裕が出たり笑顔が出たり調子に乗ってくると絞り込みは正解している。またプレッシャーが見当違いに外れていると相手に軽蔑や怒りの感情が生じてくるので注意する。

一番簡単なのは端からプレッシャーをかけていって緊張が抜けないのならその付近か後にあるので前半は除外できる、後半は余裕がないと見られない行動(身体を動かす笑うなど)で除外する。あえてプレッシャーを別の標的にかけて余裕が出てくるかを見て消去法で絞ることもできる。相手があまりに緊張している場合は日常の話や異性の話をしたりおだてたりして弛緩させると表出が容易になる。

緊張の度合いは瞬間的なものだけでなく、細かい部分を総合した雰囲気のようなところもある。慣れてくると立ち姿だけでも緊張のレベルと種類の違いで見分けられるようにはなる。ただ壇上に上がるだけで緊張しやすい人など、性格と状況を読み違えると思い込みで間違えてしまうので注意する。

というのが読み方と分析となる。

 

パフォーマンスの流れをまとめるならば、まず誘導で選択肢を絞っておいて、それに合致した適当なことを言いながらプレッシャーを与えつつ表情と緊張を読み解くということ。

喋りながら読みながら反証検討する3つの頭を同時に使えないと実践では使えないので意外と難しい。さらに誘導を仕込むとなるとかなり頭を使わないとできない。

実際に映像を見返してみると、効果があるのか分からないが相当の数の誘導を仕込んでいることが分かる。

 

 

嘘を見抜く方法を滔々と述べてきたけれど、嘘をつくのには理由があって、理由の殆どは、人間関係を円滑にする白い嘘(white lie)だったりする。従って、何でも暴けば良いというものでもない。

加えて、嘘を暴くにはプレッシャーをかける必要がある。パフォーマンスでは誘導と統計を利用すれば良いけれど、現実場面では(状況)証拠を押さえて自白させるというプロセスを踏む。

しかも自分の経験則では嘘や不正を働くのは8割が状況の誘因によるもので、性格が原因となるのは2割程しかない。8割の状況を変える力がないのであれば、嘘を見抜くことに意味はないと思う。

もうそんなことはしたくないし、そういったこととは無縁の世界で生きていたいと思う。

 

 

 

嘘を信じられなくなったのは、何かを期待したから。裏切られた気になるのは、何かを信じたから。

 

数多の誘導のなかで、自分が信じたものの為に生きていたい。

そういう自由のなかで生きていたいと、今は思う。

 

最近は猫を飼っているというだけで興味が沸いてしまう。猫を飼うという夢くらいは、諦めないようにしよう。

マインドフルネスと音楽について

マインドフルネスと楽器の聞き分け方について。
録音された音源から楽器ごとに音を聞き分けることは、意外と難しい。ここではマインドフルネス(もしくは瞑想)を用いた聞き分けのコツ(方法)を紹介してみる。

マインドフルネスとは、Google社員やジョブズ氏が実践していたことで有名な瞑想法。禅などから着想を得ているが、宗教色は廃してある。現在では科学的な研究が盛んとなっている。
内容としては、座った状態で目を閉じ、何も考えずにゆっくりと腹式呼吸することに集中するというもの。脳内ではデフォルトモードネットワークが抑制され、休息効果だけでなく創造性やストレス耐性、集中力が向上していくとされている。
ただ、多動傾向の強い人の場合、無になることで創造性が消失してしまうケースもあるという事なので注意が必要。

以下はマインドフルネスを用いた聞き分け方法の説明。
この方法は瞑想もしくはマインドフルネスによって、小さな音や、ありのままの世界への「気付き」が増すという特性を利用する。
まず何も考えない状態で、呼吸に集中する(瞑想状態にする)。
次に、その状態で音源を聴くと当然ながら「煩い(うるさい)」と感じられるだろうと思う。そこで雑音の状態として聞こえる音刺激を、各楽器ごとに抽象的にイメージして整理をしていくことをする(それぞれの楽器の音を知っているとイメージがしやすい)。
空間に楽器のイメージを定位させていくと(絵を描くように)、最終的に全ての楽器の音を区別しながら同時に聴くことができるようになる(ただし歌詞などは頭に入らなくなる)。
応用すれば、もう一つの楽器のみに集中して演奏の繊細さを感じ取ることも簡単になる(マインドフルネスの集中力の応用)。

自分は思考を殺すことを繰り返す中で、マインドフルネスのようなものに辿り着いた。結果として音を聞き分ける能力が上がったので、備忘録として書き留めておく事にする。
きっと書籍を漁ればマインドフルネスと音の感受性について書いてあるものは見つかるのだろうけれど、少なくともネット上には転がっていなかった。役に立つものかどうかは分からないけれど、誰かの何かの為になれば良いと思う。

ちなみに、なぜ録音された音源は聞き分けが難しくなるのかと言うと、おそらく人間の自然な仕様だと思われる。
「カクテルパーティ効果」のように、普通は聞きたい音だけを聞いて、他の音は背景もしくは雑音として処理される人間の知覚機構が存在する。従って、音刺激全体を一旦(雑音として)知覚して各楽器ごとにゲシュタルト(図となるもの)を再構成しなおすことで、却って明瞭に全体の音を捉えることができるのだと思われる。
勿論、指揮者やプロの演奏家はこんなことをせずとも楽曲全体の音を聴くことができて、更には自分のイメージ通りの音を演奏した上で周りの音との兼ね合いはどうかということもイメージしている。

ついでとして、バンド形式と役割分業(各パート)について、書きたいので雑感的に知り得ていることを書く。非常に面白くはないので苦手な人は読んではいけない。
バンドはボーカルとギター、ベース、ドラムス、追加するならばシンセ(ストリングス)とピアノまたはアコースティックギターが基本的な構成となる。
ボーカルはメロディーと歌詞を歌い上げる。余談として、歌詞は音楽と言葉の両方の脳領域で処理され、単純な言語とは違って聞こえているらしい。ちなみに歌が上手い人はブレスに厳しい。
ギターは楽曲に色を重ねていく。コードやアルペジオ、多彩なエフェクトをかけて楽曲のカラーを決定する。ちなみにギターが上手い人は機材に凝りやすい傾向がある。
ベースはリズムとコードを両立する。ドラムのキックやギターの低音部の音を貰ってまとまりあるグルーブを生み出す。ライブ演奏の安定感と生命力はベース演奏に掛かっている。ちなみに上手い人はピアノが弾けたり、コード理論を知っていたりする。
ドラムスはリズムの大枠を用意する。腕と足を最大限に操って百分の一秒単位のリズムと音によって構成物としての形を与える。ちなみに上手い人は近くで見ると動作自体が美しかったりする。
シンセ(ストリングス)は楽曲の意志を方向性として指し示す。シンセが入るだけで、表現できるバリエーションの幅は大きく拡がる。
また、ピアノやアコースティックギターは音が聞こえなくなりがちであるが、コードを鳴らすことで得られる音の開放感は意外に大きいと思う。

各パートに目立つ目立たないはあるにせよ、それぞれの役割に貴賤はない(勿論能力の差はある)。自らの役割を担いながら、調和して、音を際立たせ楽曲を作っていく。
そして楽曲が共感を生むことで、世界に理解者は増えていく。そう考えると少し、世界が優しくなった気がする。

自分が思うに、芸術の普遍的な感動は、意志によって世界が作られていく自由があるということ(カバラでいう創造界)。
現実の世界では物理的な豊かさ(資金力)を背景にスポンサーがついて、感情にまつわる優越性(外面的魅力やブランド)が売り物になっている。献身的なファンや活動的な支持者が支えている場合もある。
それが消費社会の正しい在り方なのかもしれないけれど、私は「私」であり続けたいと思う。
自分のなかにこの世界の汚濁たる部分があるにせよ、それは諦めて、善の連鎖を繋ぐことを目指して生きたいと、今は思っている。


音楽について語ることはスポーツについて語ることのような茫漠とした難しさがある。

他に書きたい事といえば、東洋楽器は倍音成分が多く、西洋楽器は純音が抽出されていることや、東洋人は息を合わせることを得意とするのに対し、西洋人はリズム感と音程が良くて、これは文化と言語に拠っているとする話とか。
もしくは人類学では言語より先に音楽があり、社会集団の結束に役立てられていたこと、より遡れば胎児の世界の音が低音部の世界であり、より本能的であるとする話。
高音部が旋律や和音に重要な役割を担っており、クラシックを好む人や低音の強いダンスミュージックを好む人の性格的傾向に差異があるという話。
果ては猫の為の音楽が開発されていることなど、書きたいことはたくさんある。けれども、まとまりそうにもない。
音も感情も猫も、まだまだ知らないことが多くて、思い通りにはならないもの。
頑張ろう。


追記:7/7.0:00加筆修正しました。

動物に好かれる方法と世捨て人

世捨て人パーソナリティは動物を手なづけることが得意ということを最近知ったが、自分にも思いあたるところがある。

動物(小型犬と猫)に好かれる方法で、雑感的に知り得ていることを書く。


犬(小型犬)の場合。

相手が近寄って欲しくないときはそれ以上近寄らないこと。咬まれたり吠えられたりするときは怖がっているので、動じずに安心させることを主眼に行動してあげると良い(小型犬の場合)。

害する(敵対視する)のではなく、味方であり守ってあげる(母性視する)と上手くいく。

一匹で寂しがっているときに察して、撫でて(慰めて)あげると懐かれる。虐待を受けた経験があったり、賢くて気難しい子ほど自分の場合は好かれる模様。

懐かれた結果、ずっと側から離れなくなり、家を出るときには何かを訴えるように吠えられるようになった。


猫の場合。

基本的に、自分も猫と思うか、猫も人間と思って放置するスタンスで接する。余談だが、猫の大脳皮質は人間の大脳皮質と近い構造をしており、猫と人間の感情理解は近いとの研究報告もある。

自分には「興味は持たないが関心は持つ」距離感が丁度良さそうに感じる。猫の撫でて欲しい場所を探る、遊ぶときも同じ感覚。

ちなみに興味とは、自分にとって価値ある情報に選好注意を向けること。関心とは、気掛かりとなること(自分にとって価値のない情報)にも注意を向けること。

母猫や一緒に寝てるときのイメージで撫でると寝てくれる。犬の場合は手のひらで撫でると良いが、猫の場合は指先で優しく掻いてあげた方が喜ばれる印象。



さて、野良猫がわざわざ近くに来てゴロゴロ横になってたり、脚の間をすり抜けて行ったりしたことがあるが、猫は飼ったことがない。

『無我の境地』で猫カフェでモテるという話を聞いたので、検証するために先日猫カフェに行ってきた経験を少し書く。


確かに猫は寄ってきた。むしろ開始前の説明の時点で膝に乗ってきた。撫でたら舐め返してくれた。これ自分は「もっと撫でろ」の意味だと思っていたのだけれど、店員さん曰く「お礼に舐め返している」らしい。

場所を移動して、近くに来た別の猫は自分の膝の上で脚を伸ばして30分くらい寝てた(自分の所の猫だけ)。猫がトイレに行った後も自分の近くに戻ってきてゴロゴロしてたので、少し玩具で遊んであげた。

会計後、店員さんが猫を抱えてお見送りをしてくれるのだけれど、その子はなんかこっち見てナァーナァー言ってた。店員さん曰く、この子にしては珍しく「お別れを言っている」らしい。


結論、『無我の境地(興味は持たないが関心は持つ)』で猫にモテるらしきことが分かった。

というか、振り返ると人間に対しても懐いてくれる子に対してはこのスタンスな気がしてきた。


最低限に猫に嫌われないことが分かったので、早く猫が飼えるところに引っ越したいな、と思う。

権力への意志とハラスメント

力への意志の悪辣な側面について、DV関連と過酷労働の二点から、経験的に知り得ていることを書く。

「権力への意志」はアドラー心理学の鍵概念で、劣等感を補償する為の原動力として働く意志のこと。アドラーは、目標を達成する為に健全に問題に取り組むべきであるとし、不健全な行動の使用によって問題を解決しないことは劣等コンプレックスとして批判した。

今回は、「権力への意志」の不健全な領域に主に焦点を当てていく。苦手な人は読んではいけない。


DV(domestic violence)と権力への意志

DVの関係は、権力への意志による共依存関係と解釈できる。

加害者は暴力の使用による権威関係の構築を目的とする。暴力の後に加害者が謝る(DV加害者の病的傾向としてよく見られる)姿を見ることで被害者は精神的優越を得ていると解釈される。

相手の姿に肉親の姿を重ね、復讐している場合も多く、DVの共依存関係は非常に根が深い。従って、第三者(専門家)を入れるしか方法はない。

DV加害者は自己愛性人格障害を併発していることも往々にしてある。自己愛性人格障害マキャベリ知性において、嫌悪感情と対象(この場合パートナー)を結び付けることによってパートナーの「自己嫌悪」を誘導する。自尊感情の操作によって加害者は被害者よりも「道徳的」優位に立つ。

進化論的には、嫌悪感情を抑制して世話をすることは身近な大切な対象にしか起こらない。従って、被害者が嫌悪感情を我慢することで加害者を身近な大切な人だと「錯覚」することもある(ex:ストックホルム症候群)。

自己愛性人格障害のパートナーとなった場合、自尊感情が著しく低下することも多く、洗脳といえる状態になることも少なくない。結局、利害関係のない第三者と協力して関係を解消するのが唯一の解決策となる。


とある(黒い)企業が用いるアドラー心理学

課題の分離、賞罰を禁止、役割(分業)を徹底、共同体への貢献(救世主となることは避ける)、再教育と勇気付けの概念から考察する。

「課題の分離」の悪例として、現実的に実現不可能な課題を部下に押し付けることが罷り通ることがある(全人格労働に発展する負因)。西洋でこうしたことが起こらないのは、業務(役割分業)が契約書に明記されている(契約と労働の思想がある)からである。

また、救世主となることを避けることで自発的な手助けが抑制されるケースがある(余裕を見せると仕事が上乗せされる職場なら尚更)。勿論、潰れる前にフォローする程度の柔軟さは必要と思われる。

こうした組織において上手に立ち回るには、上司への要領を得た責任移譲と問題解決、部下への業務の割振りと教育スキル、「空気を読む力」が要求される。

労働環境はピンキリであり、当然ながら潰れる程の「全人格労働」には注意し避けるべきと思われる。


共同体への貢献ができていないことの指摘について(教育と勇気付けの曲解)。これはややもするとパワハラモラハラに繋がっていく。

余談だが、「教育」では、説教の時間の長さと効果の程は反比例する。「ポジティブ+ネガティブ+ポジティブ」なフィードバックのサンドイッチを通して本人に「気付き」があるのが最も有用である。

共同体への貢献が出来ていないことへの叱責の裏に、「権力への意志」が働いている場合がある(アドラー心理学では既に賞罰禁止にひっかかってはいる)。パワハラ上司は例外なく「できない部下」への周囲の評判を下げておく働きかけをする。ターゲッティングされた部下の評判を下げておくのは、「教育」する際に悪者にならないようにする、つまり自分の権威基盤を盤石にする為の「権力への意志」が働いている(愚痴や陰口は権力ゲームに繋がっている)。

職場に自己愛性人格障害もしくはサイコパスが紛れ込んでいるケースでは、心身ともに苛烈を極める(嘘の情報操作や啀み合いが生じるので)。結果、とある企業では「教育」に熱心なようでいて、その実、権力ゲームの泥沼と化している場合がある。


アドラー的に見えて、影で権威主義的な力が働いている人物の特徴として、

「調整能力が高く冷やかな性格で、権威の押し付けには見えないが役割の責任を強調する指導をする、上司からは理想を持っている熱心な魅力的人物と評価されている人」

とすることができる。実際は、角が立たない攻撃をするクレバーさと上昇志向(権力への意志)からこうした類型(パターン)が生じてくるので、一概に人格者ということではない(人格者である必要もないが)。


以上、アドラーの「権力への意志」を中心にモラハラパワハラについて分析してきた。勿論、アドラー心理学の「権力への意志」は分析の為の概念ではないので、このような分析をすることに意味はない。また、アドラー心理学は未来志向の前向きな心理学なので、誤解されないでほしいと思う。

ただ、学校教育やコーチングには問題無くても、実質縦割り組織である企業運営にアドラー心理学を適用するのは、危険であることは指摘したい、と思った。



東京では色んな人に出会った。

自己愛性人格障害もしくはサイコパス傾向の人」「借金数千万抱えている人」「ガチガチに宗教組織にハマっている人」「社長と繋がりがあって女好きな人」「帰国子女でバイリンガルの人」「貞操観念ゼロの仕事をしてきて今はイラストレーターを夢見てる人」「中卒で100万貯めて上京してきた人」その他、色々。

東京には自由がある(勿論、地域差はある)。他人は他人であって、地獄も経験したけれど、未だ東京のどこかに住んでいたいな、と思う。長生きはできないかもしれないけれど。

自分の人生の矜持は「どんな人間の人生でも肯定する」ということ。その結果散々死にかけている。

長生きできるかは分からないけれど、貫いて生きていきたい。

悪辣な人間に成らず、厭世観を持たず、生きていきたい、と思っている。

意志の力と、内的な世界の両立の道を目指すべきように思う。


日記的ふりかえり

ODによる影響を知りたくて、知能検査(WAIS-III)を受けてきた。その結果が先日出た。

国語読解にあたる意味理解と文脈構成化は、IQ120程度まで回復したようだった。なお、暗算計算や事務能力関連のIQとの差が30程あるので、発達障害傾向の人に見られる生きづらさはある。身体もろもろボロボロだったりもする。

しかし、以前より男性性と女性性の統合が生じて来て、前よりも「わかるわかる」が増えた気がする。

まだ夢(分析)を続けられる。生きていける、と思った。


ついでとして、自傷行為リストカットやOD)について知り得ていることを書いておこうと思う。苦手な人は読んではいけない。


リストカットリストカットの安堵感をもたらす神経学的基盤は、β-エンドルフィンによる。これはマラソン選手のランナーズハイと同じ脳内麻薬であり、強力な鎮痛作用をもたらす。

基本的に、リストカットは女性に多く見られる。否定的な身体イメージと自己イメージを一致させる自己受容感を廻る行為と解釈することができる。

また、血を流すことによるカタルシス(浄化作用)は、涙と血液が殆ど同じ成分であることに由来する。献血などの瀉血行為でスッキリする人がいることは、同様の機序に基づいていることが推察される。

ちなみに、自分の意思で自分を傷付けることは、脳科学では痛み感受性が抑制されることが分かっている。つまり、殴った方が痛いというのは嘘である。一方、痛みによって離人感を回復させようという人もいる。

ちなみに、自分はこれ以上は腱が切れて楽器を演奏できなくなるところでリストカットを諦めた。

嗜癖(addiction)としての自傷は、大事な何かに注意を逸らし続けることによってやめることができる。

臨床的には高率に他の精神障害(拒食症、境界例など)を合併していることがあるので、行為そのものよりも全人格的な見立てが必要となる。

少なくとも、リストカットが道徳的な権威争いの道具として使用されることがないように、注意を払うべきである。無視するのが一番という話もあるが、上下関係のない対等な人間として話せるのならそれに越したことはない。


OD(over dose)について。過剰服薬のこと。リストカットが生きづらさの表現であるのに対し、ODは自殺企図のリスク(危険性)を疑うべき。

こちらは200錠飲んだときの自身の経験をふりかえってみる。

救急車で搬送、既にこのあたりで記憶は曖昧になる(記憶と証言に食い違いがある)。

救急隊員「これ(リストカット)いつやったの?」「高校生の時です」「縫ったの?」「縫いませんでした」と朦朧とする中ハキハキ答えていたのは思い出せる。

ICUでの胃洗浄は地獄らしいが、自分はその時には記憶がなかったから関係ない。と思ったけれどもストレッチャーに後日乗せられた時にシバリング(震え反応)があった(その時は恐怖に鈍感だったので身体が怖がっていることの理解に時間がかかった)。

なお中等症の意識障害(昏睡の一歩手前)だったが、2日後には意識を取り戻し、5日後には街を出て旧い友人のもとを訪ねたりした模様。他には警察から電話がかかって来て、事件性がないか聞かれたりした。

10錠×20シート服薬するのは並大抵のことではないらしく、初犯でなければ精神病棟への強制入院のケースだったらしい。

まとめると、ODは危険。後遺症が残る場合もある。記憶がないからといって油断はできない。下手すると強制入院のケースもある。ということ。


様々に手を尽くし抜いた末での判断だった為、後悔はしていない。なぜそんなことをしたのかと言えば、理由は5つも6つも考えられる。その時の状況では「必要」だった。

友人には様々に心配と迷惑をかけて申し訳なく思う。世界は悪意だけで廻っている訳ではないと最近思うようになってきた。


もうちょっと、生きていこうか。

(この記事は暫くしたら削除するかもしれない)

追記:スター付けてくださった方、ありがとうございます。

小説『羊と鋼の森』を読んで

2016年本屋大賞を受容した『羊と鋼の森』が手に入ったので、昨今の日本の風潮と重ねあわせて若干の分析と感想を述べてみたい。


導入部分を、稚拙な文章力で簡単に要約する。

主人公である17歳の「僕」は、期末試験の放課後、先生の言伝で「調律師」を体育館に案内してほしいと頼まれる。誰もいない静かな体育館に調律師の男を案内し、帰ろうとする「僕」は、調律されるピアノの音色から、薄闇の乾いた秋の森の木々の風と匂いを感じる。調律とともに徐々に鮮明になっていく森の景色に、「僕」は調律師の世界に入ることを決意する。


ピアノは弦(鋼)とフェルトハンマー(羊毛)によって発音される打弦楽器である。ピアノの音に鮮やかな深い自然の景色(森)を見ることが印象的な作品と思う。

作者の文体はイメージ思考の(音声ではなく映像を浮かべ思考する)人の特徴がよく表われている。主人公の思考と会話に豊富なイメージ表現を見出すことができ、イメージ思考の特徴である超個人的でマイペースな努力家であるところも、主人公の性格と重なっている。登場人物も皆キャラクターとしての役割分化があり、本作の平和的であり魅力的な雰囲気を醸し出す一因となっている。


以下はユング心理学的な分析と感想。

主人公の「僕」は、試験があっても人に頼まれやすく断りづらく、かといって本当に大事なことは誰かがやってくれるという、良心的な日本人の典型的イメージ。

「僕」がいてもいなくても、木の実は土に還り、山々の自然が繰り返されることに安心感を覚えるという感性からは、日本の地母神の強さと仏教的な無我の死生観が簡単に示されているように思う。


さて調律師としての「僕」は、実家の山を出て、調律の仕事という心像の森の世界へと歩んでゆく(ユング心理学では「森」は無意識を示し、西洋的な自我確立の入口として意義深いものがある)。

グランドピアノの音を「いい音」にすることが調律師の仕事であるが、「いい音」はお客さんによって違う。なにが正しいのかを自問しながら、調律師の仕事と、先輩とのやりとりを通して少しづつ考えていくのが、物語の本筋となる。


丁度、ピアノのイメージは西洋的な「心」のイメージとして、適当であるように思う(不要な倍音の少ない精緻な概念化と規律的な美しさ、更に音と感情は関係が深い為)。

落ち着きある調律師の男性に方向を示してもらいながら、心(ピアノ)の仕組みを「いい音」に調律していく行程は、西洋の真善美もしくは「審善美」の神秘性を追求していく感性と似ている(実際、調律を通して「美しい」「正しい」と「調和」をずっと考えていく作品でもある)。


ちなみに、秋もしくは冬という季節の舞台設定は、未だ感情や意志の存在を内に探っている段階であり、まだ外界には表現できないことを示している。春になるにつれ、芽吹きとともに意志は外界に表現されるようになっていく(ユング心理学ではこのようにして象徴から展望を読む)。


文中に出てくる「奇跡」のしもべと、タイトルの「羊」のイメージとに宗教的な重なりを見出すことができる。このような宗教的(もしくは神話的)なモチーフはさりげなく散見される。

また、ラの音(440hertz)が世界共通語を比喩として表現されるのも面白い感性と思う。これは世界への繋がりとしての希望を持つ。

一方、「知らない」からその音が良いと思うのか「好みの問題」なのか、「言葉」を重視すべきなのか感じ取るべきなのかという会話は、現代の日本人の自己主張を押しつけるべきか、調和を重視すべきかと迷う感性を非常に上手く写し取っているエピソードと思う。


今作では初め、母性(や身体)と関連した生命力と意志が美として描かれる(「祖母の入れてくれたミルク紅茶」や「生れたばかりの赤ちゃんの眉間の皺」が美しいなど)。

あらすじの詳述は避けるが、後半では、太母の死を契機に影(兄弟姉妹)との和解(相互反転)が生じ、死と再生のモチーフを通して、それぞれがアイデンティティを確立して調和していく様が強い「意志」として描かれることとなる。


太母の死に関連して、この作品では太母との直接的な対決が描かれていないことは指摘したい(西洋のヘンゼルとグレーテルでは森の奥でお菓子の家の魔女を退治することが重要な意味を持つ)。

また、作中では、「自然が神様だった」という表現もあり、太母(great mother)との親和性が高いことを象徴している。

これらのことから、今作ではおそらく完全な自我確立を果たさぬまま、西洋的な審美眼の感性を得て一定のアイデンティティ(役割)の獲得を経る、ということが主題となっていると思われる。そのことが森の入口のイメージとして集約的に表現されていると考えることができる。


実際、90年代などと比較すれば、日本の西洋化はここ20年でかなり進んでおり、単なる知識としてではなく、実感の伴う感性として西洋化を感じる兆しが現代の日本人には現れてきている。

西洋的な自我確立を完全には果たさず、西洋の感性を取り入れて調和することが、現在の日本人において一つの適応的な形として見られているのかもしれない。


この作品の主題をまとめるなら、

「西洋的な心の調律をして(秩序づけ)強い意志のもとアイデンティティ(一定の役割)を獲得し、調和的に他者へ福音(と祝福)を響かせる」

というテーマになっているように思われた。

最初は日本的な「地」のイメージ(山々など)が強かったのが、終盤になるにつれ複数の登場人物とともに西洋的な「天」のイメージ(星座など)が強まっていくのは印象的であり、感動的でもある。

西洋的な感性(審美眼)への接近と日本的な調和性の錯綜と融合が主題となる、興味深い作品に思われた。



勿論、実際はこんな観念的で概念的で宗教的(神話的)な話ではなく、柔らかな感性とイメージに包まれた平和的な小説なので、誤解されないでほしい。

流行の書籍から、風潮としての分析を試みた。勿論、通常は分析などという野暮なことはせず、文学として楽しむことが大切と思われる。


自身を振り返ると、音楽経験はバンド活動ほどしかないと思う。その頃は音の違いを聞き分けることもできず、嵐とも言える音の奔流のなかで、音を重ねるように演奏をすることが、ただ楽しかったことが思い起こされる。

今は年齢を重ねて、音に呑み込まれないようにすることで、全ての楽器の音を同時に聞き分けられるようになった。しかし今度は単なる音刺激の分解脳といった感じで、音の持つ魅力というものはもうずっと、感じられなくなってしまった。

この作品に表現されるような「夢のように美しく現実のように確かな音」というものが実在するのなら、いつか一度でも聞いてみたい、と思った。


最近の自分のテーマは「感情の語彙を増やす」ということのように思うが、なかなか難しい。

批判は人間性を規定してしまうということは分かっているのだけれど、感情を味わおうとするとやはり両面に触れなければならない。

まだまだ道は永いように思う。


心理的両性具有について

男性性と女性性の発達について、知り得ていることを書く。


社会には性役割というものがある。所謂男性らしさ、女性らしさというもの。

一般的な発達課題では、自我同一性の獲得のなかに、性同一性と性役割の獲得も含まれる。

権威(性役割)受容型か、クロスセックスタイプか、心理的両性具有(アンドロジニー)タイプと分類される。


ユング心理学では、両性具有(アンドロジニー)を目指す。

以下にユング心理学の発達理論を示す。

男性の場合。母子一体の段階が最初で、肉体的で原始的な強さや、思考的で合理的な強さや閃きを鍛え、太母を殺して自我確立する。

男性における女性性(アニマ)の発達について。最初は女性であれば誰でも良い(生物学的段階)。それから一人の女性を守って愛するようになる(ロマンチックな段階)。さらに進むと人間でないマリア様のような女性性を獲得する(霊的段階)。最終的に男性的な強さが統合された女性性が獲得される(叡智的段階)。

自身の女性性が外界の女性に投影されるので、女性と交流を持つことは男性においては女性性の発達と並行して生じることが多い。最終的には男性は女性的な包容力を得て両性具有(アンドロジニー)に向かう。


女性の場合。女性も母子一体の段階から始まる。父親を通して世界に導かれ自己投機していく。小人(未分化な男性性)の力を借りて性(社会的)役割を達成する。それから母(bad mother)によって死と再生のモチーフから男性性の獲得に進み、自立を果たす。

女性における男性性(アニムス)の発達について。男性性を意識の光のもとで真の姿を見ることから始まる。男性性の最初は肉体的な強さ。次に行為や行動力。さらに進むと言葉や意見の発言力。最終的に意味(meaning)を認識する力を獲得する。

自身の男性性(アニムス)が外界の男性に投影されるので、男性を獲得することと心理的な男性性の獲得が並行する側面がある。最終的には女性は男性的な実行力を得て女性としての意味を受容する。


アニマ(女性性)やアニムス(男性性)とペルソナ(外面的人格)の同一化の危険性について。

アニマやアニムスがペルソナと同一化した場合、男性は感情的な弱さや脆さが前面に出て合理性を失う。女性は男性的な思考や行動力の強さで女性性(感情や身体)が虐げられる。

従って、適切な、ある程度の同一性ある自分らしいペルソナ(仮面や服)を選び身につける必要がある。


心理機能で見ると、思考能力に頼り過ぎると感情が抑え付けられてしまい、現実的な適応を急ぎ過ぎると内的な精神性が抑え付けられてしまう傾向がある。

感情的なことを最優先すると合理性が失われ、可能性ばかり追い求めると現実的な感覚を忘れがちになる。

従って、対人関係や、お酒や祭り、夢や芸術などの補償作用を使って、適当に取り入れ制御する経験知を積み重ねるとともに、「自制」して男性性と女性性のバランスを身につける必要がある。


女性の場合に限り、出産と育児に際して母親に再接近することは重要な意味を持つ。自身の身体イメージや自己受容感と関係しているため。


男性は女性的な情緒面と包容力を開発して父性で締める。女性は男性的な論理面と実行力を開発して母性で受けることで、両性具有(アンドロジニー)への道が開ける。


西洋の自我確立の道を進むなら、両価性を引き受けて両性具有となることを目指さなければならない。心理的両性具有が個性化(individuation)のかたちとして到達点となる。

以上がユング心理学における男性性と女性性の発達理論となる。



ユング心理学は、一定の分析と見立てを示してくれるものではあるが、哲学を与えてくれるものではない。

性別(sex)が「生(life)」の価値を示すものではない。


「私」の哲学を取り戻して、結論とする。

自由意志があるから、いつでも過去は捨てられる。

いつだって自分であることだけが、世界を繋ぎとめる(real self)。

様々な意志が、個性化した「私」と世界を創っていく。

これからは性に囚われず世界を生き、知っていきたいと思う。