時代とコンステレーション

久しぶりに記事を書こうと思う。

時代について考えたことを簡単に総括していきたいと思う。


まず、日本の風潮の変遷について。

1990年代以前、昭和の時代は、日本の“家制度”が解体された時代であり、“家=仕事”が結びついていた社会から、“住む場所も職業も選べる時代”に移行した。ただ、実態としては“会社=家(仕事)”の価値観が根強く、経済成長と終身雇用制度の中で、日本的な心性(母性的社会)を残したままモノが豊かに溢れていくようになる時代と言える。

1990年代になると、バブル崩壊に伴い不景気ではあるものの、終身雇用の価値観は未だ根強いものがあり、『言いたいことが言えない世の中』ではあり続けた。1999年にノストラダムスの大予言があり、終末論を踏まえたオカルト的な発想や作風も好まれた。美しさの中にどこかカタストロフを含んだものが散見された。

2000年代に入ると、ミレニアムを迎え、『世界は簡単に滅ばない』という事実のもと、平和的な作風が好まれる一方で、攻撃的・破壊的もしくは暴力性をテーマに(主に)人間関係を描く作風が多く生まれてくる。KYという言葉が流行語になり、『空気を読む』という語感に攻撃性が伴うようになる。『空気を読む(察する)』という90年代からの日本らしい名残を残しつつ、暴力的・性的なアグレッション(攻撃性)が表面化し、もがきながら西洋的な自我を確立しようとする試みがなされた時代かと思われる。

2010年代に入ると、震災に見舞われ、日本特有の倫理観(外国に逃げるという選択は難しいので、“相互扶助の歴史的担保による貸借関係”を確認するように慈善行為を行う)が顕在化し、良心ある『日本らしさ』が持て囃される。一方で、終身雇用がないことが前提とされる時代に入り、『仕事と人間関係は自分でつくるもの』という価値観が一般的になる。併行して、SNSが台頭し、“優れた価値観や美意識を発信・表明できること”が理想視され、若者の間で陽キャ陰キャという言葉が流行する。単純な暴力性は知性を欠いたものとして身を潜め、“発信力”を持った自己表現・自己主張ができることが魅力とされる側面が際立つ。

2020年代に入り、コロナ禍に入ると、NetflixYouTubeが強大な動画メディアとなり、“価値観の多様性の承認”と“論理力と倫理観の両立”が為されているものが、理想視の前提となる。つまり“(旧い)価値観の押し付け”がなされないことと、“合理的・論理的に相手を説得できるが基本的には良心的であり善良である”というタイプの人間が好まれる。おそらく今後は、『統合性をもっている』と見做されることがこれからの時代必要とされるだろう。


余談として、教師というものについて。

昭和の時代は、教師というものは“(目上の立場の者が)教えてやる”という恩を生徒に与えているものであり、生徒側が恩を仇で返すような行為をした場合は、謝りにいかねばならないものだった。“恩師”という言葉にも重みがあり、教師は尊敬の対象と見做されるものであった。一方で、『恩の貸借関係』という上下関係が構造としてあり、いじめ行為をする生徒がその辺りを要領よく立ち回る(教師に“教えて頂いた”ことは目の届く範囲ではきっちりやる)ことが上手な生徒であれば、いじめた方の問題は看過され、いじめられっ子が問題児とされるパターンが多く生まれやすい土壌があった。

時代が変わり、終身雇用制が崩壊すると、“実力主義”という価値観が台頭し、『勉強は塾で学ぶ』という姿勢が一般的なものとなる。そもそも、個別指導もしくは能力別のクラス編成ではない構造上、学校での教科学習の効率は悪い。結果として、保護者・生徒のニーズ上“(先生に)教えて頂いている”という恩を感じづらくなる状態が生まれやすく、教師の権威は失墜する。教師の労働環境もブラックであり、現在は存在意義を問われ直す時代に差し掛かっている。


心理学について。

河合隼雄によると、日本の母性社会と西洋自我(+科学)の矛盾が大きなテーマとなっていたが、前述の社会情勢の変化により、日本人の見かけ上の西洋化はより一層進んでいるといえる。少なくとも、『意見を主張する』という態度は、アグレッションの変遷(暴力行為から言葉での論理的表現へ)を含めて分化され、それなりに許容されてきていると言える。とはいえ、未だ“押し付けにならないように主張する”ということが暗黙裡の前提であり、倫理となっている部分に、日本の衝突を避ける文化の名残が散見される。

河合の時代は、“因果律を超えた見方”として“コンステレーション(布置)”を重視し、“自由にして保護された環境”を整えながら、因果律を超えた“創造的な解決法”を本人が見つけることを方法論として用いられていたが、現代では本人を取り巻く環境そのものを変えてしまう方がてっとり早く、問題が解決されるように思う。生活保護まで視野に入れて考えるのであれば、変えられない環境はなく、ネット環境の普及により新たな人間関係にも繋がりやすい時代になっている。翻って、確たる関係性がない分、ソーシャルサポートをいかに作り、実感できるか否かが問われる時代となっているように思う。

また、(科学が代表する)“因果律的な見方”も、脳科学や論文を基にしたメディアや記事が台頭するようになり、検索やアクセスがしやすくなっている。『マインドフルネス』を筆頭に『非認知能力』や『レジリエンス』が注目されるなど、以前とは異なる科学観が受け入れられるようになっている。科学的とされていた(認知)行動面を扱う心理学においても、できるだけ環境変数を大きく捉えて現状を分析しようとする流れがあり、個人的にはユング心理学の“コンステレーションを分析する”態度に近づいているようなイメージを私は持つ。

いま自分が仕事にしているのは、“コンステレーションを分析し、自身もその中に入りながら環境変数を操作することで、本人に創造的な解決法を見つけてもらう”ことを行なっているかもしれない。

当たり前のことだけれども、繋がらないと思っていたことが、繋がっていくことがある。まさにコンステレーション(星座)である。また、星も動いていく。


星座も時代も変わりながら、自身も変わっていくことは変わらずに分析したいと思う。

レジリエンスについて

レジリエンスについて知り得ていることを書く。

 

1.レジリエンスとは

レジリエンスとは、失敗からしなやかに立ち直る力のこと。逆境力。

 

資質的レジリエンスと獲得的レジリエンスがあると言われている。

生まれつきに備わっている資質的レジリエンスには、

①楽観性(適切な期待)

②社交性(外向性)

③統御力(調整能力)

④行動力(自発性)

獲得的レジリエンスには、

①問題解決志向

②他者心理の理解(共感性)

③自己理解

がある。

獲得的レジリエンスは鍛えやすいのに対し、資質的レジリエンスは変わりにくい。とはいえ、現実的に問題を解決した上での楽観視や、他者と共感した上での問題解決の先読みなどは、レジリエンスを高める上で重要なところと思われるので、そのあたりを書き留めていきたい。

 

近年話題のHSP(Highly Sensitive Person)は、敏感さ故にレジリエンスが低くなる傾向があるといわれている。ただし、豊かな内的世界を表現もしくは発揮できる場所があり、将来への楽観視ができる状態であれば、レジリエンスは高まるという論文がある。

余談だが、悲しみ表情の検知能力や、自身の心拍数の変動に敏感な人ほど共感性は高まる。HSPの人や慢性的なストレス下にある人はこれらのバイオフィードバックに敏感であるので、思い遣り行動は誘発されやすい(つまり優しい)。

ただ、思い遣り行動とは、科学的には“自身のネガティブな気持ちを抑制して(隠して)向社会的な行動を(自身の不快感の低減の為に)取ること”なので、他者を助ける余裕がなかったりすると、敏感な人はむしろ攻撃性が高まる。さらに自罰傾向にアグレッションが移行すると、抑うつになりやすいので注意を要する。

他人に親切にしたり、自分に負担にならない程度に他者を助けることで、レジリエンスは高まると言われている。繊細さや敏感さがある人は、自分と周囲の人の負担をいかに調整するかが、レジリエンスの鍵となる。

 

2.ソーシャルサポートについて

ソーシャルサポート(自分を助けてくれる存在)を本人が感じられるかによって、レジリエンスは増減する。

ソーシャルサポートを感じるには、自身の感情へ気付き、必要な援助を求めることが大事である。

自身の気持ちに気付く能力を高めるには、身体感覚(内受容感覚)へのマインドフルネス、出来事+感情の描写能力(明確に具体的に言語化する力)を高めることが有用である。その為には、他者に状況と気持ちを説明する経験を積み重ねることや、紙に出来事と気持ちを書き出す筆記開示を行うなどで引き出していくことができる。

余談だが、自分のことを話すのに慣れていない人には呼び水として本人の好きなことを他者に教える形で説明する練習をすることで、説明能力を引き出すこともできる。

感情の描写能力は、体験について一言で気持ちをまとめること(ラベリング)から始めて、『~だから○○だった』『~だけど○○だった』と説明することに慣れておくことで、高めていくことができる。一旦言語化し、受容した後は、『じゃあこうしよう』という解決行動を取ることができる。

ちなみに、過去の辛い体験は、繰り返し言語化するなかで現在の自分に影響するポジティブな意味を見出だしていくことも良い。言語化していくなかで、体験にまつわる印象や、意味が変化していくことを知ることが大事。

レジリエンスが最も高い部類の人(特殊部隊の隊員などを含む)は、状況(環境)の変化に敏感であり、自身の内受容感覚(心拍数や身体感覚)の変化を敏感に検知しながら、最低限の動揺しかしないと言われている。逆に、環境や身体の変化に鈍感であったり、無視する場合は、後からパニックになりやすく、レジリエンスが低くなる。

従って、レジリエンスに必要な問題解決能力とは、些細な変化に気付き、(視野を広く持ちながら)柔軟な対応によって行動を変えられることといえる。

出来事を説明し、気持ちを受けとめ、柔軟な問題解決行動の一環として、必要なソーシャルサポートを得ていく(社会資源を活用する)流れが理想となる。

 

3.現状認識を厳しく見る

レジリエンスを高めるには、柔軟な問題解決志向と共感能力が必要になることは前に述べた。

『現状認識を厳しく見る』ことで、そのどちらも高めることができる。

他者に共感する際に、最悪のシナリオを想定してから話を聞く場合と、普段通りに話を聞いた場合の共感能力には差が出ることが、最近の医療関連の論文では言われている。近親者であればある程、最悪のシナリオを想定しやすいが、他人であればある程想像しなくなっていくことも指摘されている。共感的に話を聞く際は、最悪の状況やシナリオを想定しながら話を聞くことは、一つポイントとなる。

また、他者からの批判に対立・硬直してしまっては、柔軟な問題解決からは遠のいてしまう。批判点は包含・包括しながら、共感・受容し、問題解決を目指す。A(批判)=B(対応)というより、A(批判)⊂B(対応する人)であった方が良い。批判を受けた際に感情的な理由で対立するよりは、包含できる批判点であれば、共感してしまって、それも踏まえた上で対応を提示した方が良い。

もし合理性が破綻するのであれば、批判点は感情的に表にせず、疑問点として提示する。ちなみにその際は、無知を装い教えてもらう形で聞く方が相手の心証が悪くない(ex:“無知の知”)。

現状を厳しく見て先読みをして、共感的にどのような問題が起きてくるかを想定し、(相手を尊重しながら)先手で対応を取っていくことで、自他ともに無用な混乱なく前進していくことができる。

 

4.呼吸と自律神経について

最後に、呼吸でレジリエンスを高める方法について。一般に、マインドフルネスは自律神経を調整し、レジリエンスも高めることが言われている。ここでは、ロシアの特殊部隊のブリージング(システマ)を簡単に紹介する。やり方は、緊張や心拍数の変化を感じたら、『(口から)音を立てながら息を吐く』これだけ。自身の感覚をモニタリングをする訓練と、息を吐くことで適度な緊張に身体の状態を戻す目的で行う。

慣れてきたら、息を吐きながら骨盤に背骨と頭蓋を乗せて姿勢を整えたり、弛緩法(一部の筋肉を緊張させ吐く際に弛緩させる)を組み合わせても良い。習慣化させてしまえば、レジリエンスの基礎的な部分は飛躍的に伸びる。

ちなみに、手っ取り早く自律神経を上向きにさせるには、熱めのシャワーで延髄あたりを20~30秒温めること。もしくは貼るカイロをシャツの首裏付近に貼っておくことで、メンタルのネガティブな気分を引き摺りにくくする効果がある。

頭痛持ちには向かない場合があるが、自律神経の乱れからレジリエンスが低くなっていくタイプの人には効果がある。

根本的には、HIITトレーニングなどの高強度の運動で心肺機能を高めると、メンタルの不安定さは(ある程度)改善する。

 

 

レジリエンスは、成功・失敗、生きる・死ぬ、逃げる・戦う、二律背反のなかで必要とされるテーマのように思う。

本当にレジリエンスがある人は、そうした二律背反に惑わされずに生きていける人であって、レジリエンスなど、本来は殊更に必要とされない社会であってほしいと思う。

 

 

これからも、テーマを変えながら、変わり続ける自分で在りたいと思う。

 

子どもからの観察について

子どもとの臨床経験から考えていることを書く。子どもは大人に通じるところがあるので、対大人に関しても何らかの参考になることがあるかもしれないと思う。

 

1.教育について。矯正と関係性。

教え、育てることには二つのアプローチがある。

一つは『矯正』の考え方で、教育する側に負荷を少なく、本人に高い負荷をかけて、本人の自尊心を削ってでも知識や技能を最短で身に付けさせることを目的とするアプローチ。もう一つは『関係性』の考え方で、教育者に高い負荷はかかるが、配慮をもって本人の負荷を低く調整しながら、自己肯定感を高めつつ人間関係力を身に付けていくことを目的とするアプローチがある。

矯正という考えならば、本質的には今までの在り方を否定するという点で、本人にとってはある種の自己否定を強いることとなる。教える側にとって自尊心は低い方が都合が良いので、自尊心を低くする言葉やプレッシャーを掛けたり、できないことをあえてやらせることが『教育的指導』とされているように(自分には)見える。併せて、ヒエラレルキー(上下関係)を本人に自覚させる言動が教育者に無自覚のうちに増える傾向がある。

関係性という考え方は、本質的には人間存在そのものへの信頼があり、適切な受容的な環境を設定できれば、本人が必要な技能を創造的に身に付けていくことができるとされる。すべては経験であり、良好な人間関係を設定し成功体験を積み重ねることで、自己肯定感を高めながら社会的技能を身に付けることができる。本人が自己効力感を持ちながら新しいことに挑戦することができる。

自分の経験から言えば、技能の獲得の最短距離は、最も難しい課題への取り組みを半年や一年間、自己破壊気味に継続すること(矯正のアプローチ)。あるときに脳が繋がったかのように技能が開発されることはある(通常のやり方と異なる方略になることが多い)。ただ、(自分のように)自尊心は歪み、抑うつや二次障害を併発するリスクに曝すことを考えると、高い負荷の矯正のアプローチでは、より観察力と配慮が必要となるように思える。しかしそういった人ほど教育者側に観察力や共感性がなくなり、監視と監督が主な関心事となっていく点は見過ごせない。

結果的に、観察力が付き共感的にアプローチするようになってくると、本人に調子があり、体調やライフイベントによって、高まっている関心事も本人のキャパシティも異なることにこちらの関心事が移行する。もし成功体験を積ませたいのならば、調子が良いのか悪いのかを観察して、全体的な負荷を考え、バランスを見ながら達成可能な課題を設定しなければならない(関係性のアプローチ)。

本人にとって難しい課題も、課題を要素に分解して、(一見すると関係がないように見えるが)関連する基(もとい)となるところを鍛えることで、難しい課題がいつの間にか難しくなくなっていることがある。時間はかかるが、経験によって脳が開発され、熟練することを考えれば、苦手意識から敬遠して取り組めなくなるよりもずっと良いアプローチに思える。

 

2.パターンと環境設定

技能の習得で負荷をかける場合、熟練した人が注目点を教えてあげることと、見通しとパターンを学習させていくのが効率が良い。身に付けたパターンを派生させることで、新たな可能性や応用力を身に付けていく。

パターンが固定観念になりそうな時は、本人にとってそもそも違うように思えることを類似のパターンで辿らせることや、複数のパターンを包括した概念や条件を提示することで、視野を広げていくように働きかける。

失敗する負荷をかけたくない場合、観察から予期される負担の軽減を先手を打ってしてしまい、環境設定から本人に成功する行動と経験をさせてしまうのが手っ取り早い。

本人が持っている能力以上のものを引き出すコツは、余計な刺激を目や耳に入れないで(隠しながら)注目点を誘導することと、言語・非言語的なプライミングやメタファーを共感的に活用して選択してほしい行動を誘導する。とはいえ上手くいっていても、まるで適応的な選択肢を自ら選び続けることに近い負荷はかかるので、本人が辛くならない程度に自由を配慮した方が良い。場合によっては、自由にして守られた空間を本人に提供し、多様な(パターンでの)表現の機会を保証することで、本人に適応的な選択肢を見つけ出させるアプローチも必要なときがある。

余談だが、他に裏技的なもので言えば、驚かせたり難しい言葉を入れた後の(直接的な命令でない)間接的な指示は通りやすい(感情や思考のパターンをリセットする意味がある為)。

また、嫌悪感を本人の不適切行動に付随させたり、生理的な心地よさ(ホメオスタシス)を左右させることも行動の影響にはかなり効果を発揮する(条件付け)。恐怖心と(明確な)やるべき行動をタイムリミットと合わせて対提示することも行動のトリガーとして強力に作用するが、人道的に考えればできる限りポジティブな方法を採用すべきように思う。

 

3.共感と共同注意

共感の基となるのは、他者と共同で同じものに注意を向けるということ(共同注意)。本人の視線の先にあるもの(注意を向けているもの)にコメントすることが相手にとって最も負荷が少ない。心を閉ざしている人も、良いものに共同で注目することを繰り返すと、他者への期待感が持てるようになる。互いの共同注視から、共感の経験を入り口にして社会性の幅を広げていく。

感覚的な話となるが、体感的に共感する基本は、協調(調子合わせ)と本人のモチベーションを利用した言葉選び(含む非言語)となる。アドバイスや否定的なことを言いたくなった時は、相手と同じ動作をしてみると良い。相手が受け入れられることは、相手の気分と調子で限られている。慣れてくると一秒で調子を合わせて、本人が応じたくなる指示を出すことができるようになる。

 

4.盛り上げるか真ん中を外さないか

接し方の柱としては、主に二つある。一つは、盛り上げる手法と、もう一つは人間性を通して真ん中(本質的なこと)を外さずに接する手法がある。

盛り上げる方法は、相手に負荷がないところから共感的に入り、下から楽しい気持ちで持ち上げる感覚で接する。 自分の感覚では、一旦相手にやらせることをすべて放棄し、十分に観察した上で協調(ペーシング)ができていると、どこを持ち上げるべきかが文字通り重力のように体感される。期待が適切であれば、こちらから相手に合わせることにより相手もこちらに合わせてくれるもので、創造的な関わりから新しい道は作っていくことができる。また、一旦相手を肯定したり褒めたり、楽しそうに誘うことで気持ちを切り替え、成功体験に繋げていけることはよくある。余談だが、恐怖や不安反応の消去を促進するには、ドーパミン系の期待感やワクワク感を不安にぶつけるのが有用とのこと。

ちなみに、褒められたいポイントやタイミングは人によって違う。基本は『できた』に共感する形で褒めることと、本人が工夫した点を具体的に褒めること。体験の後、フィードバックとして明確に言葉にすることで蓄積されて残ることもある。

真ん中を外さずに接する方法は、本人が無意識に相手の反応を(主にネガティブに)誘導操作してしまったり、混乱していたりする難しいケースの場合に使う。感覚としては、感情を感じないのではなく感じているけれども自分の精神力で動かされないようにして、真ん中の本質的なところを外さずに反応を返す。この感覚が成功していると、本人が自傷行為やパニックに陥りそうな人ほど、冷静さを取り戻して応じてくれる。ただ、こちらは尋常でなく精神力を使い疲れる。相手よりもしんどさを感じていることが、この感覚が成功しているかのメルクマークになる。ちなみに、無感情でないように気を付ける理由は、相手が良い方向にずれたときにこちらがしっかりと感情を動かせる点にある。

余談だが、ポジティブな感情やネガティブな感情を原動力にして効果をあげることは、長期的には成果が安定しないことが指摘されているので、徐々に感情や意志のみに頼らずに自然にできる状態まで持っていく必要がある。

 

5.直感力と観察力

最後に、直感力と観察力について。直感的には、遠目から何も考えずに相手全体を見て思い浮かぶこと。経験則では、本人を見た初めの7秒間に思い浮かぶことはだいたい正しいことが多い。

直感と観察力を結び付けるには、前後の出来事における本人の反応のパターンを映像として記憶に留めておくこと。映像思考によるシミュレーションの材料を豊富に貯えることで、直感的な予測の精度は高まっていく。

観察力を鍛えたいならば、筋緊張と弛緩行動を読み解くこと。緊張感(肩と首の強ばりや反応速度と強度)の変化や、弛緩(緊張後の自己刺激や開放的な行動)の構造を掴んでいくと、なにが原因となっているかを見抜く観察眼がついていく。

細部の出来事は最初は点と線のようであるが、次第に大きな円となるように並べ、繋いで描いていけば、本人の生活環境まで含めて、“起きた出来事の意味(meaning)”を知ることができる。円のようなイメージができれば、一を見て十を知ることができる。

余談だが、これらの要件を習熟しておけば、ある種カリスマ性に似た予見能力や共感力が身につく場合がある。最悪の事態を予期することで、相手への共感能力は高められる。ちなみに、カリスマ性とは①親しみやすさと②包括的な影響力(リーダーシップ)によって生まれる。正しいから好きなのではなく、包括的に共感をしながら自分の不安や負担を軽くしてくれる影響力を持っているから、カリスマ性のある人は好かれることになる。勿論、人間はポジショントークの生き物だから、傘下に入っているかどうか(内か外か)でカリスマへの魅力は変わってしまうものらしい。

 

子どもに懐かれる理由は、相手の辛いところと不満を分かり、本人の発信を含めて環境を変えていく役割をとることが多いからかもしれない。好かれるのは一見良いことに思えるけれども、その実、他の人が分かってあげられていない現実を反映しているに過ぎない。好かれるのは必ずしも良いことではないと思う。

自分と関わる人が良好な人間関係のなかで、豊かな経験へと開かれることを願っている。それは今も昔も思い続けていること。

自分も、新しい経験と役割を引き受けて、頑張っていきたいと思う。

(2019.1.6.加筆修正しました)

じゃんけんについて

久々に記事を書こうと思う。

 

じゃんけんについて知り得ていることを書く。相変わらずめんどくさいことを考えているので、苦手な人は読んではいけない。

じゃんけんは一見、ランダムに手を選んでいるように見えて、意識しない見通しによって影響を受けている。

 

1.じゃんけんの手と性格傾向

グーは最も握る力を入れる手であり、頑なな性格の人や緊張感がある人が選びやすいとされている。

パーは最もオープンな手である為、勝ちに対してまっすぐな人や、おおらかな性格の人が選びやすいとされている。

チョキは解剖学的に最も出しづらい手であり、勝ちに対してひねくれた人や、クレバーな性格傾向の人が出しやすいとされている。

前の手との比較や見通しから、じゃんけんには戦略性が生まれてくる。要は、前の手と同じ手か強い手を出すか、前の手より弱い手を出すかということ。じゃんけんに関する論文によれば、相手の手よりも自分の出した手の方を気にすることが多いとされている。

最初はグーの場合、前の手よりも強い手を出す場合はパーを選ぶ。これは勝ちたい気持ちが高まっているときや、勝ちに対してまっすぐな性格傾向の人が選びやすい。対して、前の手よりも弱い手を出す場合はチョキを選ぶ。試合に負けて勝負に勝つことを好む人や、場合によっては気持ちが負けになってもいいと考えている人が出しやすい。最後に、前と同じグーを出す人は自分の手を変えたくない頑固な人や、緊張や挑発を受けて様子見、もしくは影響を受けたくないと感じている人が選びやすい。

 

2.強い手戦略と弱い手戦略

基本的に、勝ちたいと思える場面設定の場合、殆どの人は最初はグーの後パーを出す(前の手より強い手戦略)。確率で言えば、こちらは最初はグーの後はグーを出すと高確率で負け、チョキを出すと高確率で勝ちやすい条件となっている。しかし、じゃんけんをする意図に納得できないなど、相手がひねた選択肢を取りそうな場面では、相手はグーかチョキを出しやすくなるので、その場合こちらは最初はグーのあと前の手と同じグーを出すのが無難な選択肢となる。基本的には、相手の出方が読めない場合は協調的(あいこの確率が高いもの)を取った方が良い。

さて、相手と戦略が協調してあいこになった場合は、殆どの人は前自分が出した戦略を変えたくない傾向が働く。従って、最初はグー➡パー➡チョキ(前の手より強い手戦略)か、最初はグー➡チョキ➡パー(前の手より弱い手戦略)と変化するパターンが多い。

従って、こちらは最初はグー(基準)➡パー(強)➡グー(弱)と戦略を変化させるか、最初はグー➡チョキ➡チョキと戦略をスイッチさせれば勝つことができる。

最も、統計的にはどの手も出現頻度は変わらないとされており、何回もじゃんけんを繰り返した場合はこの限りではない。

 

じゃんけんは就学前の子どもでさえできる簡単な勝負だが、自己選択、決定された結果を引き受けるという時間的な要素がある。また、最初はグーによって、実は戦略性とそれにまつわる心構えの反映があるので、結果を受け入れる心の準備、納得感が生じやすい不思議な構造となっている。

 

まったくのランダムとされている選択肢にも、過去の手の影響は受けている。しかし、一つの選択や、一つの戦略は、もっと言えば一つの人生は、自分で決めて、選んで進んでいくことができる。

 

最近は幸せになりたいと生まれて初めて思うようになった。言葉にできない思いとともに、生きていきたいと思う。

誘導と嘘の分析について

メンタリストDaiGoのメンタリズムが心理学を使っていると聞いたので分析してみる。

今回は、主に誘導と嘘の見抜き方の話になるので、あまり好まない人には面白くないかもしれない。

 

メンタリストDaiGoという人物について。慶応大卒、人工知能関連の研究室に在籍していたとのこと。ノンバーバルコミュニュケーションや現代催眠、社会心理学を含む広範な心理学を援用したパフォーマンスや公演、書籍の執筆などの活動をしている。ちなみに猫を飼っている(重要)。

速読が得意で1日に興味のある本を10冊や20冊読むとのこと。乱読傾向や速読法には少なくとも多動性の傾向が見られるように思う。有から有のアイデアを次々に生み出すところも多動傾向の人の才能といえる。

 

DaiGoのメンタリズムは、主にフォーク曲げなどのマジック的なものと、選択の誘導と分析を用いたパフォーマンスとに分けられる。

今回は、後者の選択の誘導と分析について考える。

 

パフォーマンスでは、選んだものを当てたり、物や情報を隠し持っているか、持っていないかを当てたりしている。

選択の誘導方法は以下の通り。

1.選びやすい確率

セッティングについて。全くのランダムに見える選択肢も、そもそも確率に偏りがあるものが多い。例えば同じようなカラーボールに見えて目立って見える「刺激色」や普段見かけないトーンの「変わった色」など。主張が強いもの、もしくは一つだけ特異なジャンル違いのものは選びづらい。最もニュートラルには、公共性の高いものか、自己主張が強過ぎず浮いて見えるものが選びやすくなる。

置き方や色の配置の組み合わせで、選びやすいものに誘導するのが基本的な考え方。

 

2.「自分のもの」と「自分のものでないもの」

選択について。

基本的に、自分と関連するものは選びやすく、自分と関連しないものは選びづらい。簡単に言えば、「自分のもの」と思っているものは選びやすく、「自分のものでない」と思っていると選択しづらくなると思われる。選びやすいものは例えば「自分の好きな色」「使い慣れたもの」「セルフイメージに近いもの」などがある。

広告やショッピングなどを考えても、やはり自分と関連しないものや縁のないものは圧倒的に選びづらかったりする。いかにその人にとって良い文脈で関連付けて関心を持たせて注視してもらうかが、効果的な販売促進に不可欠となる。

話を戻すと、「自分のものでない」ということを相手に思わせれば、選びづらくなることを誘導できる。例えば高く持ち上げてみせるとか、大きな音を立ててみせるとか、腕や手や物で覆っておくなど(心理的リアクタンス)。ちなみに利き手でない手で選ばせるのは、「奥の方にあるもの」「安全なもの」「公共性の高いもの」を取りやすくなる確率を上げていると分析できる。

周囲の人との協調運動(ミラリング)が見られる人はマジョリティに勧められる方向に素直に従いやすく、一方、腕を組むなど敵対的なボディランゲージを発している人は「自分で決める」という余地を頼りにして選択する。心理的リアクタンス(反発)を提示して反発の無いところで選ばせたい方向に引寄せていくのが基本的な方法。

 

3.言葉による誘導(暗示)

言葉による暗示は現代催眠の技術に拠っている。例えば、専門用語の羅列や複数の選択肢を提示して迷ったところに暗示を差し込む(混乱法)。一つの単語を連想や語調で強調したり弱めたりして印象に残すほか、視線が固定化されるところに印象に残したいものを見せたり言ったりするといった手法。

補足として、周辺視野に暗示を提示する(プライミング)、嚥下時や驚き(surprise)時に暗示を差し込む、触れた瞬間や特定の音、好き嫌いの視覚領域に暗示を差し込む(アンカリングやアセンブリ)など。ミラリング反応の利用やヒューリスティックな連想(潜在意識は複雑さより簡単な解釈を求める傾向)も現代催眠の領域に思われる。

結局、催眠に掛かっているかは外からは分からないので、どこに心理的反発を提示し、どこに引寄せる力を提示するかを意図して喋っているかが大切と思われる。心理的反発の提示はあからさまに、引寄せる場合は控えめだが心地良く印象に残る感じにしている。

 

4.数字の意味

基本的に1~5までの数字を選択する場合、先頭から最後尾という考え方をした方が分かりやすい。例えば、講堂や座席でどこに座りたいかなどのイメージに近い。

1と5は自己意識が強い人で、先頭(リーダー)に立ちたいか一番後ろに立ちたいかという意味と同じ。

3は最も真ん中なので、輪の中心にいることを意識している人もしくは子どもっぽい心理状態の人が選びやすい。

2と4は中途半端な位置なので、3に比べて目立ちたくない人が選びやすい。2は先頭(リーダー)に近い位置でやや積極的であり、4は後ろから厳しく見ていたい人が選びやすい。

ちなみに象徴的には、1.個の自覚、2.交流と対決、3.子どもと可能性、4.統合と安定、5.自由と破壊となる。

 

5.視線と注視時間

視線や注意の選択は眼窩前頭前皮質の機能に拠っている。基本的には嫌悪するものから目を背け、好ましいものに目を向ける。基本的な考え方としては、注視時間が長いものほど選択されやすい。

注視時間を長くしたり、最後に注視するように操作すると、主観的により好ましいと錯覚するということが実験では明らかにされている(ex:カスケード現象)。

視線誘導の方法は、こちらの視線やアイコンタクトによるもの(驚き表情で指示するとより確実)、目印や線で指し示すなど。もっと高度にしたければ重心を意識すると良い。これらは広告では使いやすいけれど、パフォーマンスではあまり使われていないかもしれない。

 

 

嘘を見抜く方法について。

基本は表出されているもの(expression)の解釈と、質問に対しての反応を反証検討することによってなされる。さらに周りの雰囲気や緊張感の増減を読むことで精度を上げる。

1.微表情(micro expression)について。

①怒りは、眉が中心に寄る、唇が結ばれ薄くなる、鬼の形相になる。

集中している時や話が難しいときも眉間に皺が寄る。緊張しているときも唇は結ばれることに注意する。

②嫌悪は、眉から鼻と口元にかけてが縦に寄る。目の下がひくつく。

「嫌だな」と思った瞬間に出るので、理由を考える必要がある。左右どちらに反応が出たかでその人にとっての意味が違うこともある。

③侮蔑は、片方の口端が上がる。

当てが外れていたり、自分が(道徳的に)優位だと感じた(思いついた)瞬間に表れる。この表情の次の言葉は上位者の余裕で仕掛けてくるので注意を要する。

④恐怖は、目元は驚きよりも大きく開く。頬が横にひきつる。

余談だが、サイコパスが認知不可能な表情。日常やパフォーマンスで普通見ることはない。

⑤悲しみは、顔全体が感情的に動く。口端が下がる、眉が八の字になる、瞼が下がり目元が淋しそうな色を帯びる。

目元から読み取りやすい表情。眉を上げて主張を訴える癖がある人もいるので注意が必要。

⑥喜びは、顔全体が感情的に動く。口端が斜め上、頬に向けて引っ張られる、眉が山の形になる、目尻に皺が入り目元が嬉しそうな色を帯びる。

目元の眼輪筋を見ると作り笑いかどうかは判別できる。意外なことに慰めの表情も同一の表情となる。傷付いたときや悲しいときに自分を慰めようとして表出されることがある。過度なプレッシャーからの解放で表出される場合は直前までにプレッシャーが高まっていたと解釈する(面白いことを言った訳ではないのに笑った場合)。

⑦驚きは、目元が開く、口が開く。恐怖と異なり感情的には中性的。

基本的には周囲の人間に対して「注目せよ」という意味がある。分析が当たっていて関心したり興味を示してきたりすると口が開いてくる。

 

微表情はほんの短い時間(0.5秒未満)しか表出されないので、あまりに短いときは「どの部位が」「どの方向に」動いたかで判別する。慣れてくると表情に対してアテレコをしていると先に相手の言う言葉(感情内容)が読めるようになってくる。

表出された反応に対して前提条件を頭の中で差し替えて真偽を反証検討する。相手の性格だけでなく状況も理解していないと自分の思い込みで読み違えることになる。

 

2.緊張のグラデーションを読む

闘争-逃走反応が賦活されると、自律神経系の興奮が生じる。嘘をつく緊張による呼吸と心拍数の低下や変な汗(皮膚電位反応)を計測したり、眼の周りの血流の熱変化を検知する嘘発見器などがある。現場では当事者しか知り得ない情報(凶器など)をぶつけて特殊な反応があるかで絞っていくとのこと(隠匿情報検査)。

アナログで行う場合はプレッシャーがかかると筋緊張が生じることを利用する。肩や腕や姿勢、首筋や顎周りから表情の緊張を見たり、実際に触って動かしたりすると分かりやすい。

脅威(真実)が近づくにつれて緊張は高まり、遠ざかるにつれて緊張は下がり余裕が出てくるというのが基本的な考え方。従って闘争-逃走反応が賦活されるように挑発やプレッシャーをかけると反応が顕著になり分かりやすくなる。

自分が近づいたり遠ざかったり、選択肢を近づけたり遠ざけたりして緊張の度合いを読む。読まれるのではないかというプレッシャーをかけられていると、肩が上がり首筋から顔面にかけて強ばりが生じる(集中する為)。脅威が二番目に近くにあると緊張を和らげる為に唾を飲み込んだり舌を動かしたり、自分で顔や身体を触るようになったり、硬直したり顎を上げたり、逃げたそうに身体を揺らしたり、目線が揺れて周りを見たり背中を丸めたりする。決定的なものは緊張(プレッシャー)を遠ざけてみて余裕が出たり笑顔が出たり調子に乗ってくると絞り込みは正解している。またプレッシャーが見当違いに外れていると相手に軽蔑や怒りの感情が生じてくるので注意する。

一番簡単なのは端からプレッシャーをかけていって緊張が抜けないのならその付近か後にあるので前半は除外できる、後半は余裕がないと見られない行動(身体を動かす笑うなど)で除外する。あえてプレッシャーを別の標的にかけて余裕が出てくるかを見て消去法で絞ることもできる。相手があまりに緊張している場合は日常の話や異性の話をしたりおだてたりして弛緩させると表出が容易になる。

緊張の度合いは瞬間的なものだけでなく、細かい部分を総合した雰囲気のようなところもある。慣れてくると立ち姿だけでも緊張のレベルと種類の違いで見分けられるようにはなる。ただ壇上に上がるだけで緊張しやすい人など、性格と状況を読み違えると思い込みで間違えてしまうので注意する。

というのが読み方と分析となる。

 

パフォーマンスの流れをまとめるならば、まず誘導で選択肢を絞っておいて、それに合致した適当なことを言いながらプレッシャーを与えつつ表情と緊張を読み解くということ。

喋りながら読みながら反証検討する3つの頭を同時に使えないと実践では使えないので意外と難しい。さらに誘導を仕込むとなるとかなり頭を使わないとできない。

実際に映像を見返してみると、効果があるのか分からないが相当の数の誘導を仕込んでいることが分かる。

 

 

嘘を見抜く方法を滔々と述べてきたけれど、嘘をつくのには理由があって、理由の殆どは、人間関係を円滑にする白い嘘(white lie)だったりする。従って、何でも暴けば良いというものでもない。

加えて、嘘を暴くにはプレッシャーをかける必要がある。パフォーマンスでは誘導と統計を利用すれば良いけれど、現実場面では(状況)証拠を押さえて自白させるというプロセスを踏む。

しかも自分の経験則では嘘や不正を働くのは8割が状況の誘因によるもので、性格が原因となるのは2割程しかない。8割の状況を変える力がないのであれば、嘘を見抜くことに意味はないと思う。

もうそんなことはしたくないし、そういったこととは無縁の世界で生きていたいと思う。

 

 

 

嘘を信じられなくなったのは、何かを期待したから。裏切られた気になるのは、何かを信じたから。

 

数多の誘導のなかで、自分が信じたものの為に生きていたい。

そういう自由のなかで生きていたいと、今は思う。

 

最近は猫を飼っているというだけで興味が沸いてしまう。猫を飼うという夢くらいは、諦めないようにしよう。

マインドフルネスと音楽について

マインドフルネスと楽器の聞き分け方について。
録音された音源から楽器ごとに音を聞き分けることは、意外と難しい。ここではマインドフルネス(もしくは瞑想)を用いた聞き分けのコツ(方法)を紹介してみる。

マインドフルネスとは、Google社員やジョブズ氏が実践していたことで有名な瞑想法。禅などから着想を得ているが、宗教色は廃してある。現在では科学的な研究が盛んとなっている。
内容としては、座った状態で目を閉じ、何も考えずにゆっくりと腹式呼吸することに集中するというもの。脳内ではデフォルトモードネットワークが抑制され、休息効果だけでなく創造性やストレス耐性、集中力が向上していくとされている。
ただ、多動傾向の強い人の場合、無になることで創造性が消失してしまうケースもあるという事なので注意が必要。

以下はマインドフルネスを用いた聞き分け方法の説明。
この方法は瞑想もしくはマインドフルネスによって、小さな音や、ありのままの世界への「気付き」が増すという特性を利用する。
まず何も考えない状態で、呼吸に集中する(瞑想状態にする)。
次に、その状態で音源を聴くと当然ながら「煩い(うるさい)」と感じられるだろうと思う。そこで雑音の状態として聞こえる音刺激を、各楽器ごとに抽象的にイメージして整理をしていくことをする(それぞれの楽器の音を知っているとイメージがしやすい)。
空間に楽器のイメージを定位させていくと(絵を描くように)、最終的に全ての楽器の音を区別しながら同時に聴くことができるようになる(ただし歌詞などは頭に入らなくなる)。
応用すれば、もう一つの楽器のみに集中して演奏の繊細さを感じ取ることも簡単になる(マインドフルネスの集中力の応用)。

自分は思考を殺すことを繰り返す中で、マインドフルネスのようなものに辿り着いた。結果として音を聞き分ける能力が上がったので、備忘録として書き留めておく事にする。
きっと書籍を漁ればマインドフルネスと音の感受性について書いてあるものは見つかるのだろうけれど、少なくともネット上には転がっていなかった。役に立つものかどうかは分からないけれど、誰かの何かの為になれば良いと思う。

ちなみに、なぜ録音された音源は聞き分けが難しくなるのかと言うと、おそらく人間の自然な仕様だと思われる。
「カクテルパーティ効果」のように、普通は聞きたい音だけを聞いて、他の音は背景もしくは雑音として処理される人間の知覚機構が存在する。従って、音刺激全体を一旦(雑音として)知覚して各楽器ごとにゲシュタルト(図となるもの)を再構成しなおすことで、却って明瞭に全体の音を捉えることができるのだと思われる。
勿論、指揮者やプロの演奏家はこんなことをせずとも楽曲全体の音を聴くことができて、更には自分のイメージ通りの音を演奏した上で周りの音との兼ね合いはどうかということもイメージしている。

ついでとして、バンド形式と役割分業(各パート)について、書きたいので雑感的に知り得ていることを書く。非常に面白くはないので苦手な人は読んではいけない。
バンドはボーカルとギター、ベース、ドラムス、追加するならばシンセ(ストリングス)とピアノまたはアコースティックギターが基本的な構成となる。
ボーカルはメロディーと歌詞を歌い上げる。余談として、歌詞は音楽と言葉の両方の脳領域で処理され、単純な言語とは違って聞こえているらしい。ちなみに歌が上手い人はブレスに厳しい。
ギターは楽曲に色を重ねていく。コードやアルペジオ、多彩なエフェクトをかけて楽曲のカラーを決定する。ちなみにギターが上手い人は機材に凝りやすい傾向がある。
ベースはリズムとコードを両立する。ドラムのキックやギターの低音部の音を貰ってまとまりあるグルーブを生み出す。ライブ演奏の安定感と生命力はベース演奏に掛かっている。ちなみに上手い人はピアノが弾けたり、コード理論を知っていたりする。
ドラムスはリズムの大枠を用意する。腕と足を最大限に操って百分の一秒単位のリズムと音によって構成物としての形を与える。ちなみに上手い人は近くで見ると動作自体が美しかったりする。
シンセ(ストリングス)は楽曲の意志を方向性として指し示す。シンセが入るだけで、表現できるバリエーションの幅は大きく拡がる。
また、ピアノやアコースティックギターは音が聞こえなくなりがちであるが、コードを鳴らすことで得られる音の開放感は意外に大きいと思う。

各パートに目立つ目立たないはあるにせよ、それぞれの役割に貴賤はない(勿論能力の差はある)。自らの役割を担いながら、調和して、音を際立たせ楽曲を作っていく。
そして楽曲が共感を生むことで、世界に理解者は増えていく。そう考えると少し、世界が優しくなった気がする。

自分が思うに、芸術の普遍的な感動は、意志によって世界が作られていく自由があるということ(カバラでいう創造界)。
現実の世界では物理的な豊かさ(資金力)を背景にスポンサーがついて、感情にまつわる優越性(外面的魅力やブランド)が売り物になっている。献身的なファンや活動的な支持者が支えている場合もある。
それが消費社会の正しい在り方なのかもしれないけれど、私は「私」であり続けたいと思う。
自分のなかにこの世界の汚濁たる部分があるにせよ、それは諦めて、善の連鎖を繋ぐことを目指して生きたいと、今は思っている。


音楽について語ることはスポーツについて語ることのような茫漠とした難しさがある。

他に書きたい事といえば、東洋楽器は倍音成分が多く、西洋楽器は純音が抽出されていることや、東洋人は息を合わせることを得意とするのに対し、西洋人はリズム感と音程が良くて、これは文化と言語に拠っているとする話とか。
もしくは人類学では言語より先に音楽があり、社会集団の結束に役立てられていたこと、より遡れば胎児の世界の音が低音部の世界であり、より本能的であるとする話。
高音部が旋律や和音に重要な役割を担っており、クラシックを好む人や低音の強いダンスミュージックを好む人の性格的傾向に差異があるという話。
果ては猫の為の音楽が開発されていることなど、書きたいことはたくさんある。けれども、まとまりそうにもない。
音も感情も猫も、まだまだ知らないことが多くて、思い通りにはならないもの。
頑張ろう。


追記:7/7.0:00加筆修正しました。

動物に好かれる方法と世捨て人

世捨て人パーソナリティは動物を手なづけることが得意ということを最近知ったが、自分にも思いあたるところがある。

動物(小型犬と猫)に好かれる方法で、雑感的に知り得ていることを書く。


犬(小型犬)の場合。

相手が近寄って欲しくないときはそれ以上近寄らないこと。咬まれたり吠えられたりするときは怖がっているので、動じずに安心させることを主眼に行動してあげると良い(小型犬の場合)。

害する(敵対視する)のではなく、味方であり守ってあげる(母性視する)と上手くいく。

一匹で寂しがっているときに察して、撫でて(慰めて)あげると懐かれる。虐待を受けた経験があったり、賢くて気難しい子ほど自分の場合は好かれる模様。

懐かれた結果、ずっと側から離れなくなり、家を出るときには何かを訴えるように吠えられるようになった。


猫の場合。

基本的に、自分も猫と思うか、猫も人間と思って放置するスタンスで接する。余談だが、猫の大脳皮質は人間の大脳皮質と近い構造をしており、猫と人間の感情理解は近いとの研究報告もある。

自分には「興味は持たないが関心は持つ」距離感が丁度良さそうに感じる。猫の撫でて欲しい場所を探る、遊ぶときも同じ感覚。

ちなみに興味とは、自分にとって価値ある情報に選好注意を向けること。関心とは、気掛かりとなること(自分にとって価値のない情報)にも注意を向けること。

母猫や一緒に寝てるときのイメージで撫でると寝てくれる。犬の場合は手のひらで撫でると良いが、猫の場合は指先で優しく掻いてあげた方が喜ばれる印象。



さて、野良猫がわざわざ近くに来てゴロゴロ横になってたり、脚の間をすり抜けて行ったりしたことがあるが、猫は飼ったことがない。

『無我の境地』で猫カフェでモテるという話を聞いたので、検証するために先日猫カフェに行ってきた経験を少し書く。


確かに猫は寄ってきた。むしろ開始前の説明の時点で膝に乗ってきた。撫でたら舐め返してくれた。これ自分は「もっと撫でろ」の意味だと思っていたのだけれど、店員さん曰く「お礼に舐め返している」らしい。

場所を移動して、近くに来た別の猫は自分の膝の上で脚を伸ばして30分くらい寝てた(自分の所の猫だけ)。猫がトイレに行った後も自分の近くに戻ってきてゴロゴロしてたので、少し玩具で遊んであげた。

会計後、店員さんが猫を抱えてお見送りをしてくれるのだけれど、その子はなんかこっち見てナァーナァー言ってた。店員さん曰く、この子にしては珍しく「お別れを言っている」らしい。


結論、『無我の境地(興味は持たないが関心は持つ)』で猫にモテるらしきことが分かった。

というか、振り返ると人間に対しても懐いてくれる子に対してはこのスタンスな気がしてきた。


最低限に猫に嫌われないことが分かったので、早く猫が飼えるところに引っ越したいな、と思う。