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感情は普遍的価値を持つか

自分が12歳の時に出した哲学的な結論のひとつに、『感情は普遍的な価値を持つ』ということがある。これについて考えてみたい。


小さい頃一人で考えていたこと。

形あるものは壊れ風化し、不変のものは存在しない。外界は離人症(現実感喪失)があって信用できないが、代わりに意識は信用でき、自分とは、「意識」である、と考えていた。

素朴に、意識と感情は切っても切れないと考えていた(思考と感覚と直感も同様)。虚しい世界は望まないように思えた(無常観への批判)。幸福は感情であるため、普遍的な幸福感情に価値があると考えた。

12歳の結論としては、

すべてはバランス(中道)が大事であり、それが崩れていると望んでいないことが起きる(全体性totalityが崩れる)。ただバランスが崩れていることを知る術はなく(無意識の補償作用は知らなかった)、結局、普遍的な幸福「普通」を目指すべきだと思われた。勿論、7,8歳から自発的に生と死について考えていた自分が、「普通」になることはなかった。


これに対して現在の自分の視点から色々と考えていきたい。

まず、「普通」とは相対的な概念であり、純粋にはどこにも存在しない、という点は指摘できる(ただ、「普通」を演じることはできる)。

次に、感情には振れ幅があり、概して幸福と不幸を揺れ動く。感情に振り回されないことを目指すべきという考え方もある(合理性もしくは仏教観的批判)。

意識と感情(体験)に価値が有るとして、VR(仮想現実)との違いはない。ちなみに、この世界が夢でないことは証明できない(これらは偶有性の世界への招待になるとは思われる)。

加えて、実は催眠状態や、簡単に言えば想起体験で得られる感情に生理学的な差はないということが知られている。そもそも感情は、開発された脳回路の発火と神経系に依存している。


感情について、アドラー心理学では目的を持った演技と洞察される。実際、感情は進化論的な合目的性を持っている。

恐怖:攻撃者の更なる追撃を抑制し、自身の手の血流を脚に回して素早く逃げるという行動を誘発する。

怒り:自身の恐怖を抑制し腕に血流を増加させ、目的の為の邪魔者を排除する。

嫌悪:病気が伝染らないようにする。道徳的な見方を強化する。

軽蔑:(主に道徳的に)上位者であることを示す。

驚き:注目喚起の意味を持つ。

悲しみ:他者の援助を得て、自分を癒す。

喜び:自身の善の指標になる。ミラーニューロンの影響によって周囲との相乗効果を生む。


感情は、意識に把握されるよりも早く自律神経系の変化や表情筋を含む筋肉の変化に表れる。認識の構えによっては、ある程度感情の発火は左右される。

表情分析の第一人者であるポール・エクマンは、感情は人類に普遍的で、悪い(不適切な)感情から注意を逸らし、良い(適切な)感情に注目し最大化させるべきとしている。


ユング心理学。感情の内的な原型は感覚器官と神経学的機構にあるが、感情の外的な元型は象徴学的な神話に由来する。その人が全体性に向けた発展性を歩む限りは、普遍的に善い側面と考えるべきと思われる。

補足としては、キリスト教では美と愛が善であり、献身(自己犠牲)は徳であるとされる。


自分が見て(経験して)きた感情の否定的側面を浚ってみる。

感情の否定的側面として、鬱病精神疾患抑鬱と悲しみ感情を体験しており、献身的な「いい人」が自殺に追い込まれる側面が実際にある。感情の破壊的側面は慎重に考えた方が良いと思われる。

自傷行為リストカット)では脳内麻薬(β−エンドルフィン)が生じるが、それによる安堵感情(を求めること)は麻薬中毒者と変わらない。幸福とは脳内麻薬の為せる業でもある。

沢山の感情を体験し、音楽などで外に向けて吐き出す(カタルシス)。これは繰り返しになるだけでは生産性がない。カタルシスが真に幸福なのかという疑問もある。追求する中で芸術性を発揮していく必要があると思われる。

その他、ストーカー行為やモラハラをしてくる相手との交際経験からは、感情のジェットコースター的な側面が強く、一層疑問が深まった。


心理学的側面について。内観法では感謝がどうやら精神衛生に良いこと、発達理論からは、感情を受け容れられることで実存感が固められ、成長と発展に向けて動き出すということが知られている。この観点では感情に価値があるとするよりも、成長か発展を促す受容を目指すべきとされる。

しかし現実には、自分の意思次第だと強調したくもなる。実際、全受容を体現してみても、合理性や主体性には本人の意志によるところが大きい(勿論、受容される経験が段階的に必要な人はいる)。


合理的に、主体的に生きるが為に、自分の感情の良いも悪いも浮かんだ瞬間にすべて抹殺するという方法がある(自分で考え実践した)。内的な世界を殺し、感情的な批判をしている暇があるなら「今と目先(と未来)」を考える。これは勿論、合理的にはなるが、主観的な価値は消失し、記憶の価値も薄れていった。

恐怖も喜びも感じなくなり、六本木で危険な人に対しても丁重にもてなすことができるようになった時には、目的の為に自分も他人も危険に曝すような自分になったので、この方法はお勧めできない。辿り着いたのは幸せとはほど遠い世界だった。

そして自分は、生きることに疲れた。


まとめるならば、感情には神経学的基盤があり、合目的性がある。

感情には肯定的な側面だけでなく破壊的な側面も存在する。

元型論的な発達理論は感情の肯定的な側面であり、喜びの連鎖は善となる。

ただ、感情は受け容れるだけでは主体性がなく、合理的に抹殺するだけでは幸せから最も離れた世界に辿り着く。

ということ。



自由意思は、観察者と意思決定者の同一性から成立すると自分には思われる。自由意思の観点から考えて結論にする。

意識における「私」とは観察者であり意思決定者である。

感情が神経学的な機構に支配されていても、それを意識において観察し、「私」は感情に触れ、引き受けることができる。感情の奔流のなかでも、「私」は実質的な選択肢から、意思決定をする自由がある。勿論、感情を抹殺し見ぬ振りをすることもできれば、幸せや悲しみを含む多くの感情を受け容れることもできる。


そして、「普通」は目指すことはしなくても良い。それは「私」ではないから。


もう多くは望まない。

今は猫と暮らすことにとても憧れてる。


風潮の私見

このあたりで西洋の自我確立から昨今の風潮まで、適当な私見を述べたい。


西洋の自我確立について。

子供の自我確立の流れを見るのには、ユングによるとグリム童話などの昔話を読むと良い。

たとえば、ヘンゼルとグレーテルは、家庭に居場所がなくなり、森に置き去りにされるが、お菓子の家の中で魔女(bad mother)と出会う。これは太母(great mother)の否定的な側面であり、この魔女を釜で焼き殺して宝を持ち帰ることで、自我確立がなされる。

白雪姫の話を読めば、母親の嫉妬を買い殺されそうになった娘が、父親の助けを借りて命からがら逃げおおせる。小屋で小人(ちっちゃいおっさん)達の助けを借りながら、母親に毒リンゴで殺されそうになるが、王子様のキスと結婚によって母親が死ぬ。

このように、基本的には太母を殺すことによって自我確立はなされる。

より進んだ男性性の確立としては、ドラゴン退治をしてお姫様や宝を得る話や、クピドの姿を追いながら苦難を乗り越えて成長するプシュケの話を読めば良い。


さて、このように西洋は、はっきりと明確な概念化の傾向と、それを殺すことでより良いものを得る、という文化的な元型が見て取れる。キリスト教を参照しても、善は善、悪は悪とはっきり概念化されている。

弁証法は西洋哲学の基本だが、この概念化による明確な対置と、より良い概念を得ようとする精神(良心)に支えられて議論がなされる。

この精神がもはや良心のレベルまで高められていると、何も主張しないことは意見がないのと同じ、という世界に表れてくることになる。善いものは賞賛し、悪しきものには意見を主張する、というのが西洋の基本的な良心のように思う。


対して日本はどうだろうか。

日本神話は一神教としてのパワーは持たず、多義性のまま包含する性質を持っている。これは現実には神聖な土地と家の歴史、家業の分業、歴史に担保された相互扶助社会の両輪によって基礎付けられてきた。

思想的な側面は、仏教の色即是空は相対化の思想として受け容れられ、儒教は道徳として受け容れられた。

しかし、これは文化的俗流化とも言える状態で、細かい宗教的で思想的な理念を削ぎ落とすことで、平和的に共存する世界として表れている。


しかし、日本にも西洋的な考え方が流入するに連れて、かなりの変革が要請されてきた。

具体的には自己主張をすることや、一貫したアイデンティティ(同一性)を保つこと、実力主義社会の構築を要請されてきた。

しかしこれらによって終身雇用制度への不信、年上を敬ったりする儒教的道徳の退廃、歴史を担保にした相互扶助関係の崩壊で、コミュニティの必要性が生じるようになった。


一方、西洋でも、アドラーの共同体感覚や、ロジャースのエンカウンターグループなど、個人を超えて共同体としての関わりを持つことが要請される部分も生じている。もっとも、基本的な部分は医学的で科学的な力が強いのは変わらない。

しかし、昨今の瞑想やマインドフルネス、仏教への関心を見るにつけ、西洋的な思想の東洋思想への接近は散見される。

反社会的ではない向社会的サイコパスへの関心もやや話題にされているように思う。これは功利主義的な思想がサイコパスの思考様式と近似しているために生じているかもしれない。サイコパスは極悪非道な犯罪者にも、功利主義的な思想家にもなれる可能性を持っている。もちろん正真正銘のサイコパスは気質的に嘘で他人を操作する傾向が強いので、信頼のおける社会を構築するには向いていない。

モデルとしては、AIが最も功利主義的な思想に有力とも思われる。どうも資本主義の未来は、功利主義に移行していくようでもある。


さて日本に戻れば、多義性を受け容れる土壌があるおかげでカオスとなっている。新興宗教はひそかに乱立し、啓発本の仕事術を体現したかのような意識高い系がいるかと思えば、ニートの存在が失業者としての側面ではなく語られる。芸術分野でも各クラスタで活発な発表を行っており、またそれらが互いに(完全には)排斥されることなく受け容れられている。

しかし一方でパワハラやモラハラ、空気を読むことや読まないこと、道徳よりも正論を吐くことなど、社会性における良心が問題とされることが多くなったようにも思う。

詰まるところこれは時代に合った新しい良心を模索する必要性を示唆している。


今後の日本の課題はおそらく、

1.明晰な概念化と弁証法的な良心の獲得

2.普遍化された理念と平和的共存の両立

が求められている。

これは実際難しく、明晰な概念化はコンプレックスに名前を付けるだけで発展しない可能性や、西洋的な良心の不在は理念への傾倒、盲信、混乱の危険性を秘めている。


しかし、各人がある程度の答えを模索していく必要があるだろうと、思われる。


今が最も自由で、危険な時代かもしれない。という風に思った。


思考法について

箸休めに、自分が使っていた思考法について思い浮かぶものを考える。


演繹法

前提から結論を論理的に導き出す(構築する)。論理学の範疇。前提の正しい設定が困難なのと数学的思考能力が求められる。正しければ数学的に予測ができる。


帰納法

より集めた事象と事実から論理性を抽出する。反証可能性の検討による科学的思考。普遍的な法則で現象を説明する。


類推(analogy)

事象と類似性のある事象を関連づけて説明する。必ずしも論理的でないのが特徴。現在を分かりやすく説明するには比類なき方法。


批判的思考。

上記3つの思考法で批判点を洗い出し、理想といえるものを彫り出す思考法。


弁証法

物事を対置させて議論し、共通項からより高次な概念を抽出する方法。ある意味アサーション。「答えは真ん中にある」ともいえる。


全受容。

起きている事象をあるがままに理解し、肯定する。裏の論理性と限界そのものも受容する。過去に纏わる感情の受容をする。概念的操作もしてみると過去の可能性の理解にも使える。


意味(meaning)。

全体の布置から未来を予測する。可能性と展望を見る。ついでに象徴と元型による見立ても。


イデア(芸術)的思考。

本質を見抜いて因果律を創造する。発展的なものを作り出す。「気付き」に注目すれば新しいものが設計できる。


確率論。

演繹法帰納法を組み合わせて合理的な確率で選択肢を絞っていく。個別性の検討、功利主義に繋がっていく思考でもある。


損得勘定

贔屓とか好意とか打算とか考えるときに使う。苦手。


同一性。

自己同一性から立場や経験や人間的主張を考える。「自分」という個別性を尊重して決定する。


抽象的思考。

高次概念や概念的感覚を組み合わせて検討する。高IQの人と話すときはこれをやらないと間に合わないのが辛い。要するに自分の頭は悪い。


あとは、イメージ(映像)を浮かべながら思考するのも苦手。これは秩序ある把握と記憶には有効らしい。


全部の思考法を一遍にできる頭があれば、どれ程良かっただろうか。

自分が生きてるうちは、足りない頭でも哲学して生きたい。

いつか自分が納得できる思考法と出逢えればいいな、と思う。


自由意思と世界

量子力学コペンハーゲン解釈では、世界は重ね合わせの状態であり、確率でしか表せないという。

世界が重ね合わせであるなら、さながらパラレルワールドのような世界が存在することになる。存在するとしたら無限に可能性は拡散しているのか、あるいはあるところで可能性は収束するのか、詰まるところ決定論に影響はあるのか無いのか、興味深いものがある。

パラレルワールドの存在は、自分の可能性世界への憧憬を誘導する。しかし、これに対しての論考をまとめてみたい。


まず、当たり前でもある自由意思の真相は、「私は意思決定者であり観察者でもある」ということ。

「私」には同一性と連続性があるために、選択(と責任)が生じる。そして、他の選択肢の可能性は「私」では無くなる。このために、「私」は意思決定者である。

そして同時に、「私」は世界を感じ取り観察する主体である。ゆえに観察者でもある。

「私」は意思決定者であり、観察者である。


さて、「私」には同一性と連続性があるために、「私」は自分しかおらず、そして一つの選択肢しか選べないと思う。このために選ばれなかった選択肢(可能性)への後悔や、憧憬が生じてくる。

しかし、可能性としての世界は、意思決定者であり観察者としての同一性によって棄却されるべきだろう、とも自分には思われる。そのあたりを考えていきたい。

では、その前に意思決定者であり観察者である基となる根拠はどこに求めるべきだろうか。自分は結局、魂であるように思う。


「私」の同一性と連続性において、魂と意識の問題は、切っても切れない関係にある(肉体が魂といえるエネルギーを創造し維持しているのか、魂がイデアの一形態であり、むしろ物質の創造に一役かっているのかは分からない)。

基本的に、意識の中核に「私」は存在する。結局、脳活動だけでは意識の中核の同一性や、クオリアの問題は説明することができない。

魂は脳波に影響を受け、脳の量子に影響を与えることにより、意識状態と意思の伝達性を成立させると思われる(現時点の科学的観点では否定的な仮説。あってもランダムの影響になるか、ランダムは自由意思ではないことが問題とされている)。

観察者としての「私」の感覚は、魂が中核となり、人格と身体を通して、同一性ある意識のなかで知覚される。

世界の観察者である「私」の同一性は、魂の存在抜きには成立しえない、と考える。


意思決定に関してはどうだろうか。この世界には根拠と誘導に溢れている。

たとえば、嫌悪感を間接的に示されれば、政治的な信念を誘導する事は可能であり、恐怖心を間接的に示されれば、強迫的な行動を誘導することも可能である。また、世界を統計力学で説明することも不可能ではないし、進化論的に説明し去ることも可能である。

結論としては、意思決定とは、内的状態と外的状態の総和であり、記述するとしても確率論でしかない、ということになる。

実際、等価選択肢数のように、妥当と思われる選択肢の数が実質的な選択肢であり、それが正しいかどうかということも、本来の問題ではない。また、最も不確かさが均質(ランダム)な状態が、選択肢が最多ということになり、最も自由ということになる。
つまり、「私」の意思決定に主体的な意味はなく、自由は確率論に還元される。ここでも、「私」の同一性と連続性から、反論を考えてみたい。

「私」の存在と可能性世界は、両立しえない。なぜなら、「私」の世界は常に一つであるからだ。
たとえば、手術の成功率が50%であろうと5%であろうと、「私」が死んでしまえば、もう片方の可能性は永久に潰えてしまう。反対に「私」が生き残れば、95%の「私」が死んだ可能性の世界は意味を持たない。
「私」の存在により、「私」の可能性の世界は常に一つであり続ける。

「私」が選んだ選択肢ーーー確率が高くても低くても、正しいとしても間違っていたとしてもーーー「私」の同一性と連続性により、「私」は選択の責任を引き受けなければならない。
幸福や不幸も、権利や刑罰も、受け入れなければならない理由は、「私」において他の可能性世界は存在しないから。だから責任がある。

違った観点から言えば、実質的等価である選択肢がどれも魅力的なものであれば、観察者である「私」には、天国のような世界に思われるだろうし、逆に選択肢がどれも残酷なものであれば、地獄のような世界に映るだろう。
この世界が天国のようであろうと地獄のようであろうと、「私」の世界は自分だけのものであり、「私」の選択は自分だけのものである。そこに確率は存在しない。

結論としては、「私」の同一性によって、確率論に奪われた世界は取り戻されるのではないか。
そこには責任を引き受けることにより自由を取り戻す、という逆説がある。


「私」の世界は常に一つである。
魂を賭け続けていれば、世界は常に主体的で、自由であり続ける。
そのことは忘れないでいよう、と思う。


観念論と美

美と宗教と自然について。


意志と表象としての世界を読むと、美(芸術)のレベルとして、

超越的な存在>人間や動物>風景や自然>建築物や職人芸によるもの

の序列とされている。

基となるプラトンイデア論でも、宗教的な連関として魂とイデアは切っても切れない関係にある。


キリスト教圏にあっては、

神>人間>家畜>自然

という序列。

アニミズム(自然信仰)は低俗なものとして否定される。昔、山に登った詩人(名前忘れた)が、その景色に感動するが、キリスト教の教義により、すぐにその考えを改める、という話さえある(近代になるにつれ自然美はキリスト教のなかに受け入れられていった)。

一方、自然に対する感動というものは、人類普遍に存在する(朝焼けに神々しさを覚えたり、夕焼けに郷愁を感じたり、嵐には超越的な何かを感じる)感覚。そうした感覚は自己を超越したヌミノース体験(numinous experience)というが、その体験が基となり神話は作られる。

上記の詩人の例と併せて考えてみると、神話から教義が作られるか、教義から神話(自然)が壊されるかという問題にも感じられてくる。ここではキリスト教の他所の宗教への破壊性を論じることはせず、人間が美しいと思うことと、宗教的な意味での信じることが、重なり合う部分であることを指摘したい。そこには主客の別け隔てのない、世界の感じ方がある。


さて、視点を変えて、身体の知覚的な側面に目を向けてみる。自然を見る際、一般に女性の方が色覚が優れている、とされている。4色型色覚を持つ人も女性の方に多い。女性の視点を通して見ると、男性よりコントラストの強い、ビビッドな世界を見ているように自分には感じられる。ちなみに、4色型色覚を活かして絵を描く女性もいる(画家コンセッタ・アンティコ)。

対照的に、色盲だったと言われる画家として、ゴッホが挙げられる。色盲の真偽は別として、彼の色彩センスもまた、微かな色の違いを感じとり、再現していたのだと思われる。

ちなみに自分の身体はというと、離人感覚(現実感喪失)があり、色盲は無いが、色彩から受ける感受性は無いに等しい。ただ、自然に意志の内在を感じるとき(木の枝の伸び方ひとつでも)、そこに実在する美しさ(イデア)や神秘的な感覚(ヌミノース)に焦点を当てて、感受性を引き出すことはできる。また、他者の視点を介して、世界を見るということはできる。


結論として、

美の本質は自己(理性)と身体を超えた普遍性を持っている。美は表象される因果を超えた実在性であり、たとえば自然への没我的集中を通して直感される。と、言うことができる。

自分には美に貴賎はないように思われる。


プラトンイデア論やユングの神話的解釈を踏まえて美を考察すると、詰まるところ、観念論としての宗教哲学へと回帰することが分かった。


感情と物自体と価値

物に対する主観的な感情が価値を左右する。

http://digitalcast.jp/v/11297/


物は同じでも、主観的な意味付けが変わると、価値は大きく左右される。上記のTEDスピーチでは絵画贋作の話や、痛みの実験など、様々な実際例を挙げて説明される(和訳のみ表示すると良いと思う)。

神経学的な感情に関しては、合目的性(怒り感情は相手がわざとと思うと増幅するなど)があるので、おいておく。

さて一見、芸術性がないものに価値を見出すことは間違っているように思える。これに対しての考えをまとめてみたい。


たとえば、博物館に行くと、骨格標本が飾ってあったりする。様々な動物の形態が、骨格の展示によって示される。骨格には進化における動物の歴史が詰まっている。とてつもない自然淘汰と意志とのせめぎ合いのなかで、動物の形態が、生態が形づくられている(それこそcharacteristicに)。骨格標本を見れば、それが現実の世界のものとして眼前に示される。


滅んでしまった恐竜は、そのときの地球の歴史の目撃者でもある。歴史の創り出す骨格標本のなかに、星の記憶を見い出すことができる。

記憶(歴史)に価値を見出すことは、本質的な意志の価値を探ろうとする試みとも考えられる。そのために上記のような現象が生じてくる(本物でないことが判明した途端に打ち捨てられるなど)。


イデアの感性が、意志が物質化されるすがたを描こうとするのに対し、歴史の検閲は、物質と感情との結びつきを端的に示す。

贋作師であるハン・メーヘレンの作品を見ていると、絵画におけるエネルギー(意志)の力の向き(方向)は若干意識して描かれているが、その意志の先に、受け止める物自体(描き出すイデア)がない。彼が追い求めるのは芸術家(フェルメールに憧れる感情)であり、イデアではない。

結局、イデアを感じるには、意志(エネルギー)の結晶として具象化されたもの、抽象化され統合されたものを見るしか、ほかに方法はないのだろう(物自体)。


たとえばクロード・モネは、自然のイデアを捉えるのが上手だった画家だと思われる。フェルメールの絵画からは、神秘的な宗教性が感じられる。

自分が宗教的感情を体験することは、もう命がいくつあっても足りないので、やめておくことにする。


感情的でも、芸術でも、宗教でも思想でも、それぞれの本質から、世界の見え方は変わっているのだろう。

宇宙論と意志と意識について

神秘的な観点での宇宙論と意志、意識について。


意志と意識のモデルとして考えているのは、

意志>魂>人格>身体>意識

の構図。これを基に、カバラ思想と、意志と表象の概念を援用して考えたい。科学的な論考は勿論似非科学となってしまうけれども。


創造主はアインソフオウル(ビッグバン)により、宇宙は一点から拡がった。宇宙は天体を創り、自然法則を生み出す。自然法則のなかには意志が流れている。意志は植物や動物や人間を生み出し、それらの中にも、ビッグバンから一貫して意志の力が流れている。

物自体のなかに流れている意志の直感が、イデアの感性。意志と自然法則は数学的である。そのために数式、数学もイデアを湛えている。

意志が生み出した身体は、動物や植物や人間を、生存と生殖に向かわせる。意志は生存と生殖のための本能となり、善なることだけでなく、破壊的な悪をも含む。動物や植物にも、表象のなかの因果に気づく悟性があるが、人間に特にその力が強い。そのために人間は、完全に意志に呑み込まれず(理性としての意識)、表象を概念として観察する。


意志は物理的な存在を通してだけでなく、風や引力、光や磁力にも含まれる。そのため人間は、自然や人間の集まるところ、天体の引力などによって影響を受ける。強い磁界や電波でも、何らかの影響を受ける。

意志は数学的性質を持っているが、偏差によって自然環境にダイナミックな影響を与える。この偏差には量子が関わり、意志による干渉を受ける余地となっているかもしれない。

自然環境のなかでは、様々な方向からの意志を受けて、干渉される。結果として、特徴的なエントロピーの偏りが生じる。ある程度、クラスタごとにまとめられた者は、同一の方向からの意志による影響を受けやすくなる。そして、落ち着く場所や関係性、大きくは運命の流れや、小さくは体調やツキの波が生じる。異なる方向から意志と意志が働く影響で、同一の方向からの影響を受けやすい人と受けにくい人が出てくる。これが個人差となる。

意志は無根拠であるが調整する働きを持ち、調整によって布置された世界の直感的な悟性を、共時性の感覚として見る。逆に人間の意志によって、世界に調整の影響を与えることもあるが(おみくじの選択結果などは分かりやすい)、基本は大きな物理世界を介した意志による力の方が強い。

神といえる存在からの意志による影響で、縁や子宝などは特に調整されやすい。意識への直接の干渉よりも、小さな偏差が物理的に大きな差となって表れるところに干渉されることが多い(補償作用としての夢なども含む)。夢や占いやおみくじ(共時性)は、こうした意志の力の方向を浮かび上がらせることへの努力である。


意識の成立は当然、身体の脳活動の状態に依存する(幽体離脱体験の脳活動もある)。しかし、自我としての感覚(クオリア)があるのは、脳の量子に魂といえるものが干渉し、また、魂も脳活動からダイレクトに干渉を受けるためかもしれない。この双方向性が自意識の中心的感覚となる。

意識の存在理由は、あくまで様々な方向からの意志を表象として知覚、保持し、動物的にならないためにある。理性としての存在意味となる。



といった風に考えれば、神秘的な世界と意識の話はまとめられるだろうか。根拠となる裏付けはないが、自分なりに神秘的な宇宙論をまとめてみた。

魂の成り立ちの話はないが、イデアそのもの、ということになるだろうか。そうなると、プラトンの言うイデア界に帰れるのは、ビッグバンが収束するときになってしまう。それとも光の速さを超えられるのか。死後の世界は分からない。


自分としては神秘的なものに懐疑的な立場だ。だが結局、占いや共時性に一定の現象的な意義を認めた方が良さそうな事態を観測してきた。

私個人の話をすれば、同時に複数の直感(感覚?)を感じたり、小さな頃から離人傾向(主に現実感喪失)が強かったので、マトリックス的世界観や、仏教的無常観は既に「現実として」慣れ親しんだものだった。

臨床心理学を必死に学んで、私が感覚として掴んでいたものが、占いによって簡潔に示されていたことを知ったときは、愕然としたものだ。


よって、神秘的な世界に一定の価値を付与し、認めるものとする。