感情は普遍的価値を持つか

自分が12歳の時に出した哲学的な結論のひとつに、『感情は普遍的な価値を持つ』ということがある。これについて考えてみたい。


小さい頃一人で考えていたこと。

形あるものは壊れ風化し、不変のものは存在しない。外界は離人症(現実感喪失)があって信用できないが、代わりに意識は信用でき、自分とは、「意識」である、と考えていた。

素朴に、意識と感情は切っても切れないと考えていた(思考と感覚と直感も同様)。虚しい世界は望まないように思えた(無常観への批判)。幸福は感情であるため、普遍的な幸福感情に価値があると考えた。

12歳の結論としては、

すべてはバランス(中道)が大事であり、それが崩れていると望んでいないことが起きる(全体性totalityが崩れる)。ただバランスが崩れていることを知る術はなく(無意識の補償作用は知らなかった)、結局、普遍的な幸福「普通」を目指すべきだと思われた。勿論、7,8歳から自発的に生と死について考えていた自分が、「普通」になることはなかった。


これに対して現在の自分の視点から色々と考えていきたい。

まず、「普通」とは相対的な概念であり、純粋にはどこにも存在しない、という点は指摘できる(ただ、「普通」を演じることはできる)。

次に、感情には振れ幅があり、概して幸福と不幸を揺れ動く。感情に振り回されないことを目指すべきという考え方もある(合理性もしくは仏教観的批判)。

意識と感情(体験)に価値が有るとして、VR(仮想現実)との違いはない。ちなみに、この世界が夢でないことは証明できない(これらは偶有性の世界への招待になるとは思われる)。

加えて、実は催眠状態や、簡単に言えば想起体験で得られる感情に生理学的な差はないということが知られている。そもそも感情は、開発された脳回路の発火と神経系に依存している。


感情について、アドラー心理学では目的を持った演技と洞察される。実際、感情は進化論的な合目的性を持っている。

恐怖:攻撃者の更なる追撃を抑制し、自身の手の血流を脚に回して素早く逃げるという行動を誘発する。

怒り:自身の恐怖を抑制し腕に血流を増加させ、目的の為の邪魔者を排除する。

嫌悪:病気が伝染らないようにする。道徳的な見方を強化する。

軽蔑:(主に道徳的に)上位者であることを示す。

驚き:注目喚起の意味を持つ。

悲しみ:他者の援助を得て、自分を癒す。

喜び:自身の善の指標になる。ミラーニューロンの影響によって周囲との相乗効果を生む。


感情は、意識に把握されるよりも早く自律神経系の変化や表情筋を含む筋肉の変化に表れる。認識の構えによっては、ある程度感情の発火は左右される。

表情分析の第一人者であるポール・エクマンは、感情は人類に普遍的で、悪い(不適切な)感情から注意を逸らし、良い(適切な)感情に注目し最大化させるべきとしている。


ユング心理学。感情の内的な原型は感覚器官と神経学的機構にあるが、感情の外的な元型は象徴学的な神話に由来する。その人が全体性に向けた発展性を歩む限りは、普遍的に善い側面と考えるべきと思われる。

補足としては、キリスト教では美と愛が善であり、献身(自己犠牲)は徳であるとされる。


自分が見て(経験して)きた感情の否定的側面を浚ってみる。

感情の否定的側面として、鬱病精神疾患抑鬱と悲しみ感情を体験しており、献身的な「いい人」が自殺に追い込まれる側面が実際にある。感情の破壊的側面は慎重に考えた方が良いと思われる。

自傷行為リストカット)では脳内麻薬(β−エンドルフィン)が生じるが、それによる安堵感情(を求めること)は麻薬中毒者と変わらない。幸福とは脳内麻薬の為せる業でもある。

沢山の感情を体験し、音楽などで外に向けて吐き出す(カタルシス)。これは繰り返しになるだけでは生産性がない。カタルシスが真に幸福なのかという疑問もある。追求する中で芸術性を発揮していく必要があると思われる。

その他、ストーカー行為やモラハラをしてくる相手との交際経験からは、感情のジェットコースター的な側面が強く、一層疑問が深まった。


心理学的側面について。内観法では感謝がどうやら精神衛生に良いこと、発達理論からは、感情を受け容れられることで実存感が固められ、成長と発展に向けて動き出すということが知られている。この観点では感情に価値があるとするよりも、成長か発展を促す受容を目指すべきとされる。

しかし現実には、自分の意思次第だと強調したくもなる。実際、全受容を体現してみても、合理性や主体性には本人の意志によるところが大きい(勿論、受容される経験が段階的に必要な人はいる)。


合理的に、主体的に生きるが為に、自分の感情の良いも悪いも浮かんだ瞬間にすべて抹殺するという方法がある(自分で考え実践した)。内的な世界を殺し、感情的な批判をしている暇があるなら「今と目先(と未来)」を考える。これは勿論、合理的にはなるが、主観的な価値は消失し、記憶の価値も薄れていった。

恐怖も喜びも感じなくなり、六本木で危険な人に対しても丁重にもてなすことができるようになった時には、目的の為に自分も他人も危険に曝すような自分になったので、この方法はお勧めできない。辿り着いたのは幸せとはほど遠い世界だった。

そして自分は、生きることに疲れた。


まとめるならば、感情には神経学的基盤があり、合目的性がある。

感情には肯定的な側面だけでなく破壊的な側面も存在する。

元型論的な発達理論は感情の肯定的な側面であり、喜びの連鎖は善となる。

ただ、感情は受け容れるだけでは主体性がなく、合理的に抹殺するだけでは幸せから最も離れた世界に辿り着く。

ということ。



自由意思は、観察者と意思決定者の同一性から成立すると自分には思われる。私が思う自由意思の観点から考えて結論にする。

意識における「私」とは観察者であり意思決定者である。

感情が神経学的な機構に支配されていても、それを意識において観察し、「私」は感情に触れ、引き受けることができる。感情の奔流のなかでも、「私」は実質的な選択肢から、意思決定をする自由がある。勿論、感情を抹殺し見ぬ振りをすることもできれば、幸せや悲しみを含む多くの感情を受け容れることもできる。


そして、「普通」は目指すことはしなくても良い。それは「私」ではないから。


もう多くは望まない。

今は猫と暮らすことにとても憧れてる。


思考法について

箸休めに、自分が使っていた思考法について思い浮かぶものを考える。


演繹法

前提から結論を論理的に導き出す(構築する)。論理学の範疇。前提の正しい設定が困難なのと数学的思考能力が求められる。正しければ数学的に予測ができる。


帰納法

より集めた事象と事実から論理性を抽出する。反証可能性の検討による科学的思考。普遍的な法則で現象を説明する。


類推(analogy)

事象と類似性のある事象を関連づけて説明する。必ずしも論理的でないのが特徴。現在を分かりやすく説明するには比類なき方法。


批判的思考。

上記3つの思考法で批判点を洗い出し、理想といえるものを彫り出す思考法。


弁証法

物事を対置させて議論し、共通項からより高次な概念を抽出する方法。ある意味アサーション。「答えは真ん中にある」ともいえる。


全受容。

起きている事象をあるがままに理解し、肯定する。裏の論理性と限界そのものも受容する。過去に纏わる感情の受容をする。概念的操作もしてみると過去の可能性の理解にも使える。


意味(meaning)。

全体の布置から未来を予測する。可能性と展望を見る。ついでに象徴と元型による見立ても。


イデア(芸術)的思考。

本質を見抜いて因果律を創造する。発展的なものを作り出す。「気付き」に注目すれば新しいものが設計できる。


確率論。

演繹法帰納法を組み合わせて合理的な確率で選択肢を絞っていく。個別性の検討、功利主義に繋がっていく思考でもある。


損得勘定

贔屓とか好意とか打算とか考えるときに使う。苦手。


同一性。

自己同一性から立場や経験や人間的主張を考える。「自分」という個別性を尊重して決定する。


抽象的思考。

高次概念や概念的感覚を組み合わせて検討する。高IQの人と話すときはこれをやらないと間に合わないのが辛い。要するに自分の頭は悪い。


あとは、イメージ(映像)を浮かべながら思考するのも苦手。これは秩序ある把握と記憶には有効らしい。


全部の思考法を一遍にできる頭があれば、どれ程良かっただろうか。

自分が生きてるうちは、足りない頭でも哲学して生きたい。

いつか自分が納得できる思考法と出逢えればいいな、と思う。


自由意思と世界

量子力学コペンハーゲン解釈では、世界は重ね合わせの状態であり、確率でしか表せないという。

世界が重ね合わせであるなら、さながらパラレルワールドのような世界が存在することになる。存在するとしたら無限に可能性は拡散しているのか、あるいはあるところで可能性は収束するのか、詰まるところ決定論に影響はあるのか無いのか、興味深いものがある。

パラレルワールドの存在は、自分の可能性世界への憧憬を誘導する。しかし、これに対しての論考をまとめてみたい。

 

まず、当たり前でもある自由意思の真相は、「私は意思決定者であり観察者でもある」ということ。

「私」には同一性と連続性があるために、選択(と責任)が生じる。そして、他の選択肢の可能性は「私」では無くなる。このために、「私」は意思決定者である。

そして同時に、「私」は世界を感じ取り観察する主体である。ゆえに観察者でもある。

「私」は意思決定者であり、観察者である。

 

さて、「私」には同一性と連続性があるために、「私」は自分しかおらず、そして一つの選択肢しか選べないと思う。このために選ばれなかった選択肢(可能性)への後悔や、憧憬が生じてくる。

しかし、可能性としての世界は、意思決定者であり観察者としての同一性によって棄却されるべきだろう、とも自分には思われる。そのあたりを考えていきたい。

では、その前に意思決定者であり観察者である基となる根拠はどこに求めるべきだろうか。自分は結局、魂であるように思う。

 

「私」の同一性と連続性において、魂と意識の問題は、切っても切れない関係にある(肉体が魂といえるエネルギーを創造し維持しているのか、魂がイデアの一形態であり、むしろ物質の創造に一役かっているのかは分からない)。

基本的に、意識の中核に「私」は存在する。結局、脳活動だけでは意識の中核の同一性や、クオリアの問題は説明することができない。

魂は脳活動に影響を受け、脳の量子に影響を与えることにより、意識状態と意思の伝達性を成立させると思われる(現時点の科学的観点では否定的な仮説。あってもランダムの影響になるか、ランダムは自由意思ではないことが問題とされている)。

観察者としての「私」の感覚は、魂が中核となり、人格と身体を通して、同一性ある意識のなかで知覚される。

世界の観察者である「私」の同一性は、魂の存在抜きには成立しえない、と考える。

 

意思決定に関してはどうだろうか。この世界には根拠と誘導に溢れている。

たとえば、嫌悪感を間接的に示されれば、政治的な信念を誘導する事は可能であり、恐怖心を間接的に示されれば、強迫的な行動を誘導することも可能である。また、世界を統計力学で説明することも不可能ではないし、進化論的に説明し去ることも可能である。

結論としては、意思決定とは、内的状態と外的状態の総和であり、記述するとしても確率論でしかない、ということになる。

実際、等価選択肢数のように、妥当と思われる選択肢の数が実質的な選択肢であり、それが正しいかどうかということも、本来の問題ではない。また、最も不確かさが均質(ランダム)な状態が、選択肢が最多ということになり、最も自由ということになる。
つまり、「私」の意思決定に主体的な意味はなく、自由は確率論に還元される。ここでも、「私」の同一性と連続性から、反論を考えてみたい。
 
「私」の存在と可能性世界は、両立しえない。なぜなら、「私」の世界は常に一つであるからだ。
たとえば、手術の成功率が50%であろうと5%であろうと、「私」が死んでしまえば、もう片方の可能性は永久に潰えてしまう。反対に「私」が生き残れば、95%の「私」が死んだ可能性の世界は意味を持たない。
「私」の存在により、「私」の可能性の世界は常に一つであり続ける。
 
「私」が選んだ選択肢ーーー確率が高くても低くても、正しいとしても間違っていたとしてもーーー「私」の同一性と連続性により、「私」は選択の責任を引き受けなければならない。
幸福や不幸も、権利や刑罰も、受け入れなければならない理由は、「私」において他の可能性世界は存在しないから。だから責任がある。
 
違った観点から言えば、実質的等価である選択肢がどれも魅力的なものであれば、観察者である「私」には、天国のような世界に思われるだろうし、逆に選択肢がどれも残酷なものであれば、地獄のような世界に映るだろう。
この世界が天国のようであろうと地獄のようであろうと、「私」の世界は自分だけのものであり、「私」の選択は自分だけのものである。そこに確率は存在しない。
 
結論としては、「私」の同一性によって、確率論に奪われた世界は取り戻されるのではないか。
そこには責任を引き受けることにより自由を取り戻す、という逆説がある。
 
 
「私」の世界は常に一つである。
魂を賭け続けていれば、世界は常に主体的で、自由であり続ける。
そのことは忘れないでいよう、と思う。

 

感情と物自体と価値

物に対する主観的な感情が価値を左右する。

http://digitalcast.jp/v/11297/


物は同じでも、主観的な意味付けが変わると、価値は大きく左右される。上記のTEDスピーチでは絵画贋作の話や、痛みの実験など、様々な実際例を挙げて説明される(和訳のみ表示すると良いと思う)。

神経学的な感情に関しては、合目的性(怒り感情は相手がわざとと思うと増幅するなど)があるので、おいておく。

さて一見、芸術性がないものに価値を見出すことは間違っているように思える。これに対しての考えをまとめてみたい。


たとえば、博物館に行くと、骨格標本が飾ってあったりする。様々な動物の形態が、骨格の展示によって示される。骨格には進化における動物の歴史が詰まっている。とてつもない自然淘汰と意志とのせめぎ合いのなかで、動物の形態が、生態が形づくられている(それこそcharacteristicに)。骨格標本を見れば、それが現実の世界のものとして眼前に示される。


滅んでしまった恐竜は、そのときの地球の歴史の目撃者でもある。歴史の創り出す骨格標本のなかに、星の記憶を見い出すことができる。

記憶(歴史)に価値を見出すことは、本質的な意志の価値を探ろうとする試みとも考えられる。そのために上記のような現象が生じてくる(本物でないことが判明した途端に打ち捨てられるなど)。


イデアの感性が、意志が物質化されるすがたを描こうとするのに対し、歴史の検閲は、物質と感情との結びつきを端的に示す。

贋作師であるハン・メーヘレンの作品を見ていると、絵画におけるエネルギー(意志)の力の向き(方向)は若干意識して描かれているが、その意志の先に、受け止める物自体(描き出すイデア)がない。彼が追い求めるのは芸術家(フェルメールに憧れる感情)であり、イデアではない。

結局、イデアを感じるには、意志(エネルギー)の結晶として具象化されたもの、抽象化され統合されたものを見るしか、ほかに方法はないのだろう(物自体)。


たとえばクロード・モネは、自然のイデアを捉えるのが上手だった画家だと思われる。フェルメールの絵画からは、神秘的な宗教性が感じられる。

自分が宗教的感情を体験することは、もう命がいくつあっても足りないので、やめておくことにする。


感情的でも、芸術でも、宗教でも思想でも、それぞれの本質から、世界の見え方は変わっているのだろう。

ユング心理学と見立て

ユング心理学と見立てとの関連について、やや専門的に知り得ていることを書く。ユング心理学は基本的に、補償作用と展望の心理学である。

 

タイプ論。劣等機能の開発を通して全体性(totality)を得る。

外向的な人は内向的な側面を、外向的な人は内向的な側面を開発する必要がある。

思考タイプの人は合理的側面が強いので女性的な側面を、感情タイプの人は男性的な思考の側面を開発する。感覚タイプの人は神秘的側面を、直感タイプの人は現実的側面を開発する必要がある。

基本的には、補助機能として、外向的な人は思考か感覚機能を、内向的な人は感情か直感機能を用いる。未分化な機能を開発する際は、主機能を補助機能にずらして開発していく形となる。とはいえあくまで便宜上であり、臨床では男性的か女性的か、現実的な側面を強化するか情緒的な側面を開発するか、として見る。

 

コンプレックス。

コンプレックスに関しては、基本的にその人の未発達の課題がコンプレックスの塊まで発展しやすい。その人の特徴的な気質(強さもしくは弱さ)から考えると分かりやすくなる。基本的にはどの時期に課題を乗り越えるだろうかと見立てておき、本人が課題に直面した時や乗り越えようとした際に必要な情報や解釈や共感を与えて見守る(時熟)。

実際的には、投影と同一化が「嫌いな人」「苦手な人」に向けられ悪口や愚痴を言うのと、かなり歪んだ「良い人」像が語る人自身や他者に向けられるので、両価性を考えながら共感と指摘をする。

 

個人的無意識と普遍的無意識。心像と象徴。

夢や表現されたものには普遍的無意識が反映されることがあるが、その場合は元型を考える。例えば、太母(great mother)では地や子宮と、呑み込まれる死(もしくは安楽)がテーマであり、自我の確立に向けた合理的な強さを開発する必要がある。

他にいくつか挙げてみる。河の向こう岸へ渡ることは女性が男性性(自我確立)に向けて自己投棄する時期が来ていることを示している。あるいは男性は竜退治によってアニマ(女性か宝)を手にして自我を確立するし、女性は「知ること」を通して自我確立へと出発する、など。神話や昔話、象徴を拡充法(amplification)として伝えるときは、本人が展望を持って勇気付けられるときのみ行う。

基本的には、元型は展望を見るために有用となる。例えば影はその人が生きられなかった反面であり、適当に自我に取り入れることで解決する。子供は新しい可能性が生まれたことであり、その可能性を育てる必要があることを示している。トリックスターは統合性を乱し、権威的な一面性の改変が必要とされていることを示す。老賢者は成熟に向けた人格発展の展望を示す。

基本的には個人的無意識の心像を元型や象徴と結びつけて、補償されているものや展望を見る。心像や象徴を解釈するコツは、元型や象徴を先に知っておき、自分ではせいぜい元型と象徴的な連想をするくらいに留め、展望に向けた合理的な説明をいっぺんに感じ取ること。

基本的に上記について共感的な態度で接していると、ときに退行現象が生じてくるが、留意すべきは、まず第一にカタルシスによるストレス浄化効果、第二に依存形成について、第三に現実に戻れるか否か、最後に新たな可能性を取り入れた創造性を慎重に考慮する。

 

夢分析

基本的に夢が何を補償しようとしているか、展望を見せるか、あるいは警告しているかを見る。基本的に夢のなかで転換点といえるポイントでどう変化するか、夢を見る前と見た後で何か態度に変わったところはあるかを考える。知らない人(もしくは他人)の登場人物は心的要素として見て、身近な人は実在の人物との関係を見る(主客水準)。

夢においては、思考機能が刃として示され、感情機能が女性として表される。あるいは暴漢は自我に取り入れられていない男性性だったりする。結局、夢は過剰な表現にして見せるため、夢=本人であると考えない方が良い。夢の内容は無意識による赤裸々な描写ではあるが、主に補償作用を目的としているので、その人の自我にどう取り入れられたか、ということを含めて本人と考える。

死と再生のモチーフ。人は大きく変わろうとする際に死の経験に向かう傾向がある。実際に危険であるので細心の注意を払う。自殺傾向のある人や解離性人格障害の人には過度な直面化は避けるべき。

 

アニマとアニムス。自己。

思考が刃で、身体が力であるなら、ペルソナ(人格的な仮面)は鎧にあたる。さらにペルソナの内側には女性的な魂があると考える。精神(ガイスト)は風や精霊のようなものと考える。自己は精神から魂までを含む自分の中心と考える、という構図が基本的概念になる。

母親像(魔女や竜)を殺し分離した美しい女性像がアニマの基盤となる。男性においては太母から自立できているか(母子一体の段階)、性的なことを受け入れられているか(生物学的段階)、女性性と適切な関係を築けているか(ロマンチックな段階)、と進むのが実際のところ。

アニムスは父親像から分離した男性像となる。女性は基本的に父親を殺しはしなかったように思う。典型的なのは自分を好きと思ってくれている「足りない」父親から、小人を経由して、王子様へと進む。あとは感覚機能が強い筋肉質な人や、思考機能の高い知的な人がアニムス像となりやすい。意外と老賢者は女性の方に現れやすい気がする。

ちなみに男女ともに母親の影響による精神発達の歪みは大きい。男性は女性関係を見ると分かりやすく(マザコンなど)、女性は母親から心身のイメージの取り入れを図って混乱している場合(分かりやすいのは拒食症など)が多い。

結局、アニマやアニムス、父親像と母親像との過度な同一視は避け、適切な関係を築いていくことが大切とされる。

 

数字の意味について。

0はウロボロスなど全と無が混合した状態。1は個の自覚、2は対決と交流、3は発展と可能性、4は統合と安定、曼荼羅などを示す。夢や作品などで数に注目すると、段階が見えてくるものもある。

夢分析は個人で行うのは難しく、また夢診断と異なり人格発展の理論を援用するものであるが、象徴学的な解釈をしていそうな夢診断や夢占いなどを見ることでも、ライトに夢の補償効果を高めることができる。個人で行う場合は悪化する危険性があるので、暇つぶし程度の浅い感覚で楽しむことが必須と思う。

 

自我の確立と、無意識との適切な関係を築くことがユング心理学の目標となる。自己がコンプレックスを布置し、乗り越えるためのヒントを夢や無意識、共時性を通して教えるので、自我はそれを通して経験を積み、取り入れることで次第に自己実現が果たされるというモデルになる。ユング心理学の第一人者である河合隼雄は、因果律による操作性を排し、道(タオ)の道筋にその人を戻してあげることが大切と説く。

 

ユング心理学は、表現や作品といえるもの全てに対して適用することができる。象徴学的な分析の誘いとなるので、そのようにして楽しむことが良いと思う。

 

昔の記憶だが、思いのほか思い出すことができた。

象徴やモチーフや共時性が散りばめられていれば、まだ読んでいない物語の先を予測することはできるようになった。それはあたかも予知能力者のような気分で面白い。単に面白いからやっているだけで、これを他者に伝えていく気概はもう残ってはいない。
  
これからは、イデアや芸術について、もっと深く知りたいと思う。
 

創造性と気質について

遺伝的気質に関連する創造性と才能について、知り得ていることを書く。


一般的に天才とされる高IQについて。

IQが高い人は、概念形成能力が高く、すべてにおいて論理的整合性がとれている。概念的な思考の速度が速いので、反証性の検討が速い。結果として扱える情報量が多く、論理的で感情的にも整合性のとれる考えで解釈を行う。

ただ、大した話じゃなくても(論理的な整合性のない話でも)、論理的に筋道の通った解釈を探してしまう癖が見られる(類推して分かった振りをしなければならない機会が少ない為)。IQが20違うと会話が噛み合わないことがあり、平均IQの人との調整にストレスを感じる。少数派であるために高IQで恵まれていると感じることは案外少ない、とのこと。


芸術性の側面からの才能について。

芸術的IQ(才能)が高い人は、物事を抽象的なイメージとして捉え表現する能力を持っている。抽象化にかけるエネルギーが強く、それでいて本人のなかで統合性がとれている。

ただ、感性に周囲の人がついていけないと(抽象化されたことを感じとることができないと)変わり者扱いを受ける。本質的な部分を分かられる人が少ないために、信頼できる人の選別がシビアになる。


芸術性に関わる人には、頑固な気質の人が多いように思う。

頑固なことは一見ネガティブだが、段取りの細かさは成功体験に根差しており、納得のいくクオリティを追究するために生じてくる。


芸術的才能と精神障害との関連。

芸術作品を作る際に、無意識の深いレベルに(不随意的に)アクセスしやすい傾向がある人(統合失調症傾向)。創造されたものは人類に普遍的に深い心像を持ち、神話などの創造力とも親和性がある。無から有を生み出す。

ただ、無意識のレベルが深いために個人的な不安感による幻覚が現実のものと感じられたり、実際に知覚領域が連動して見えたり聞こえたりするような危険に踏み込んでいく場合もある。


多動傾向のある人。無意識の浅い領域に(不随意的に)アクセスしやすい。移り変わる興味の幅広さと、多領域を連関させた創造性を発揮する。そういった人は、選択肢や関心領域が限定された際に集中力(過集中)を生み出す。有から有を生み出していく創造性。

勿論、注意の焦点化の機構が機能しないことや、関心領域の思考が圧倒することで、実生活上で種々の問題が生じてくることもある。


局所的に脳血流が多いことがあり、ずば抜けた計算力の高さや、イメージ記憶能力による精密な再現を得意とする人(アスペルガー傾向やサヴァンなど)。一部の人には数字を(イデアのように)美しいと感じる感性がある。

勿論、規律的な理解だけで物事を理解するように限定されてきたり、刺激の抑制が効きにくいことがあると、種々の問題が生じてくる。


共感覚者。多領域の知覚連動(共感覚)が実際にあり、感覚的な美しさと合わせて独自の芸術性を発揮する人。

自分の感覚を他者と共有することはできないので(同じ共感覚を持つ人は一人としていない)、感覚という確かなもの(クオリア)に執着しやすい傾向がある。


補足で芸術性とは直接関連しないが、仕事などで有利なデザインを考えるのに有効な気質。

サイコパス(精神病質)傾向のある人。恐怖と驚愕反射が弱く、自尊心が高い。ミラーニューロンのオンオフを切り替えることで、功利主義的な発想を考える。また、他者操作的な発想を考え出す力も強い。

恐怖、不安傾向が強く、道徳社会化が発達した人。こちらは思いやりがある社会デザインを考える才能がある。不安傾向が高い方が、安心を得るために計画能力を身につける。

不安が強い一方で必要に迫られる基準の高さがある人(強迫傾向)。その人に強い意志がある場合は、周囲が不安に思うより先に自分で手を打ち、抜けのなさ、セキュリティ意識の高いデザインを考える才能がある。


才能は何もないところに生まれる訳でない。

一見して良き才能とされていることにも弊害はある。才能の裏の本人の苦悩は見落とされやすく、同時に、見えない努力によって才能を掴んでいることもある。

才能は無闇に羨むものではない、と思う。


アドラー系の本を読んで

今一番売れているであろうアドラーの読み物から、適当に要点と批評をまとめたい。


アドラー心理学は、反証可能性がないため自然科学ではないという批判がある。ユングフロイトも同様の批判を受けている。これに対して、ユング現象学的立場を取る。この本によるとアドラーは哲学であるとしている。宗教との相違点は神話を排除する点と、ドグマ思想に陥らないことにあるとしている。無知の知という態度を取り、人間知の学問であるとしている。哲学というよりは思想と言えるかもしれない。ユングもドグマ思想を嫌ったが、神話を重視した点は差異である。

ちなみに、フロイトは因果論を唱えたが、簡単に言ってしまえば、原因が大したことがないことが分かれば、カタルシスとともに意志により結果も変えられるという信念に根ざしている。一方ユングは、因果を見るには神話や昔話、関連する象徴学を援用することが有効であるとし、心的要素が結晶された象徴として夢や芸術を重視した。結局、因果が分かるだけでは(解釈では)変わらないこともあり、自我の因果から外れた自己(self)による夢や共時性を自我に取り入れて努力することにより、解決するとした。

余談だが、フロイトで役に立つのはエリクソンに繋がる発達段階説が一般向けの説明として有用。ユングはセンスがあれば見立てに役に立つ。アドラーは感情の使用の洞察が有用かと思う。

以下本の要約と批評。


アドラーは自他の課題を切り分けることが大切と説く。最終的な責任を引き受ける人の課題であるとする。自他の課題に介入することは依存を招くので忌避される。

最終的な目標は、優越性に基づく自立した行動と、共同体感覚による社会と調和した行動を取る人物である。簡単に言えば、自他の区別がしっかりした共感性の高いできる人。


共同体感覚の基礎として、共感が挙げられている。共感とは、相手の心と人生から、課題と問題行動にまつわる感情を想像し体験する技術、としている。さらに共感の基礎として、その人のありのままの個性に対する尊敬と、その人らしく成長発展することを尊重する態度が挙げられている。このあたりはロジャースの来談者中心療法のように見える。自分の感覚として付け加えるならば、自他の課題の分離を極限まで高めて集中すれば、共感はより容易くなる。

共感に基づく尊敬が、間接的な勇気づけになるとのこと。

共感は確かに幸福な共同体感覚であるが、見立てのない共感は危険であることは指摘したい。


アドラーは因果論そのものを棄却する。何故なら感情は目的を持っており、因果はその根拠として使用され、多くは現実から目を背ける目的を持つからという。アドラーは劣等感の補償を努力の原動力とみなし、問題から目を背けることを劣等コンプレックスとして批判した。

過去の因果は自分の都合の良いように編纂されるとしている。例えば、現状を肯定する目的で不幸な過去が美談として語られたり、悪いあの人や可哀想な自分の話が現状維持のために持ち出される。

自分が変わることはある意味で死ぬことと同義であるので(死と再生のモチーフ)、人は変わりたがらないが、相手を信頼し今ありのまま目の前の姿を認められることで、これからを自発的、建設的に考えることが勇気づけられるという。

確かに、今ここの重要性は強調して然るべきであり、感情や問題行動が、ある意味で自分にとって都合がいいことも事実である。実際、感情による顔や声の表情は特定の行動を生理的に誘発させる目的(仕組み)を持っている(悲しみ表情で周囲の人間の助力が得られるなど)。

共感性と建設的志向は、共同体感覚における貢献的態度へと接続する。


力への意志による問題行動5つ。

1.賞賛欲求

2.注目喚起

3.権力争い

4.復讐

5.無能の証明

実際に見て体験して思うのは、ありのままを認める空間を提供することは下に行く程難しい。実は課題の分離も下に行く程できていたりするので、共感を求めない傾向も強まる。一方、共同体感覚がないかというと、そうでない場合もあるので厄介である。


賞罰について。まず罰は、権力関係の維持を目的としており、暴力の行使を視野に入れた手段であるため、推奨されない。加えて共感という立場も欠く。権威関係による保身と無責任さを回避するために、自立を目標にすることが大切としている。

賞賛に関しても、上位者による自尊感情の操作として結果的に競争原理を招き、ひいては不信と不正の温床となるとしている。

結局、自己価値の評価を他者に求めずに、自立して劣等感の補償の努力を続け優越性を目指し、共同体への貢献を目指すべきとしている。

まとめるなら、孤独(自他の課題の分離)と自立(優越性と責任)と共同体感覚(尊敬と尊重)があり自分で主体的に決定する人物像である。


人間の問題はすべて対人関係の問題であり、責任は自分と相手(共同体)にある。相手の信念は変えられないので主に自分の責任を考えなければならない。ここではメサイアコンプレックスが問題にされている。自分が知らずのうちに上位者(救世主)となり対等の地平に立たなくなると、共同体感覚が成り立たない。共同体感覚は対等の地平に存在する。


交友のタスクと仕事のタスクについて。交友のタスクは自分を信頼し相手に条件をつけず信頼を寄せること。仕事のタスクは合理的に分業を行い条件つきの信用を寄せること。仕事でも誠実さと熱心さが信頼に結びつくという。

信頼は信じることと同義であり、嘘があろうと存在そのものを信じる勇気が必要と説く。自分が信頼して投げかけた後は相手の自由とする(課題の分離)。

しかし普通、投げかけられた方は自分の問題と責任である、と裏の内容も受け取るので行動が期待された方向に縛られやすくなると思われる。共同体感覚に適合しているかが、是か非かと問われる感じも受ける。


愛のタスクは、自分と相手で継続して愛を与え続けること。自分を愛し、他者を愛する。自立を果たし共同体(自分達)を能動的に愛し、利他の幸福を築きあげる。それは人類への貢献であり、自己中心性からの脱却を意味する。

非常に宗教のような急進的な思想のような論法でまとめられていると思う。

最後に、可能性でなく存在を信じ、決断を胸に最良の別れに向けた不断の努力をすべしとまとめられている。


補足で政治的な傾向。

地位からの転落と返り咲きの欲望が過去への執着を生み保守的で権威主義的思想を醸成する。

次に地位を努力では手に入れられないと反権威主義的な革命志向を醸成する。

最後に既存権力に不安があると悲観論と臆病さを醸成する。

傾向があるとまとめている。


概観としては孤独としての課題の分離と、感情の目的性、共感の記述のあたりは面白かった。

ただ、非情な合理性に裏打ちされたコモンセンスに反する緻密で論理的な組み立て方は、設計主義に通ずる左翼的思想の感覚があった。後書きを読みアドラー共産主義に傾倒していたと知り納得できた。

現在の日本は西洋化と、日本的な共同体の融合の要請を受けている。アドラー心理学は西洋における自我の確立された人間が共同体に貢献するモデルとして考えられたものなので、現在の日本の時流とマッチングしやすく、流行っているのだと思われた。


ちなみに、日本は責任の所在が分かりづらく、西洋よりも混同しやすい。その点、自他の課題の分離をスマートに行うことは、近年日本では大人の対応として見る。という風潮も感じたりする。

西洋の文化土台なしで自立(=自我の確立)は、どこまでいけるだろうか。