挑戦の足跡

苦手なことを克服してきたノウハウを書きたいと思う。

 

小学生の頃は友達ができなかった。それは転校を機に友達を好きになることで簡単に解決した。

好意の返報性が人には備わっているから、その人のことを好きだと思って接すれば好かれることは簡単だった。自分が傷付かないように面白いキャラクターを演じ、楽しませれば大体の人には好かれる。

スポーツはできなくても器械体操でバク転までできれば悪い風には取られなかった。

 

中学生は自分の勉学の才能の無さに辟易した。国語の読解も才能がなく苦手だったが、先生の「正しい読み方」を細かくメモし、出題者の意図を読んで解答すれば簡単だった。論外な選択肢は除外し、迷うものは根拠となる裏を取って、選択すれば大体合っている。覚えれば落とさない問題を完璧にしておけば、最期の学年末テストで満点を取ってトップになるのは簡単だった。

 

高校では苦手な先輩がいた。尊敬もできないパワープレイで押してくるような人。相手の先の先を取って完封すればボコボコにするのは簡単だった。

他人の心の痛みが分からなかった。「いい人」とされる人が自殺する理由も分からなかった。鬱病のチェックシート通りに考え、行動すれば、ネガティブに考えてしまう人の気持ちを体感するのは簡単だった。

リストカットをしているのに普通の人と同じようにしている人のことがよく分からなかった。自罰的な考えで自分を追い込み、リストカットすれば、リストカットをする人の気持ちが分かった。浅くしか切れなかったが、自分の保身から来る一線を踏み越えれば最終的には静脈まで切るのは簡単だった。普通にしていることは、不幸を受け入れて他人と共有しないようにすれば簡単だった。

助けたい相手との共依存を避ける方法が分からなかった。見立て(見通し)を持って当たることで解決した。

音楽が苦手だった。家にあったギターを四六時中弄ってたら一ヶ月で使われるコードは全て抑えられた。バンドを組んで1日10時間の練習をしたら誰よりも早く上達するのは簡単だった。

大学を受験するつもりがなかったが受験することになった。歴史を全く覚えていなかったが、政治経済に転向したら一ヶ月で合格ラインに乗った。受験勉強は二ヶ月で終わった。最終的にセンター試験は国語9割でねじ込めた。

 

大学に入ったが、カウンセリングの見立ての立て方が分からなかった。発達段階(ライフステージ)的理解と、性同一性の理解、分析心理(神話・象徴)学的理解と、家族(病理)分析、遺伝気質学的理解で大体の見立てが立てられるようになった。最終的には30代のカウンセラーと同じ見立てが立てられるようになった。

最初は寄り添い方が分からなかった。それに対しては相手の話に頷くこと、最大限関心を持つこと、驚いて見せたり、感情豊かにコメントすること、相手の話を否定しないで、理想と現実のギャップに共感することをしていれば、最低限話を聞くことは簡単だった。

そこからは相手のコンプレックスを意識しながら話を聞き、その枠組みに沿って言葉を返すことを重ねた。当時は音楽の歌詞を聞きながら言葉のニュアンスを違えないように言い直すことを練習したりしたっけ。

最終的には要約、共感、解釈を繰り返せばそれらしくなった。相手の目線から映る自分をイメージし、共感しているように見えるように自制すること、傷付きの核心を深いところから取り出してその痛みを声色に滲ませて明確にすれば、相手を涙させることまでは簡単ではなかったが、できた。

実習に当たるときは、必ず前回までの内容を見返すこと、今回話した内容を全て逐語録に起こすこと、寝る前に解釈をまとめてSVに報告すること、翌日解釈を見直すことを徹底して行っていたっけ。

結果も出て、県トップの心理士の先生から才能があるって言われたりしたっけ。他人の心が分からないのに。

論文が苦手だった。フォーマットを完璧にして、明確に簡潔に書くことをしたら簡単だった。

 

大学卒業後、占いに興味を持ったが、占いが存在する理由が分からなかった。占いをしてみたら第六感でスケッチしていたところが簡潔に示されていた。周期の根拠は理解できないが、星座を類型的に理解して数を象徴学的に理解することはできた。

政治で「正論」と持て囃される意味が理解できなかった。感情的な不利益や被害感から出発して一貫して合理的な理屈を並べて攻撃をすると理解すれば簡単だった。

新興宗教が沢山あることが理解できなかった。キリスト教系、仏教系、神道系、サイキック系を土台に、信仰者を非信仰者より格上に定義付け、教義で行動を制限し、信仰者の価値を上げたり下げたりして自尊感情を揺さぶり、ユートピアや共同体を掲げ一方で恐怖を煽り布教行動を誘導し、金を効率的に巻き上げる仕組みとして理解したら簡単だった。最終的には(依存によって抑圧された)恐怖心による行動支配が本質と理解することができた。

 

自己啓発系の仕事術がなぜ良くないと言われるか分からなかったが、物事を単純化して因果律として捉え、習慣化して自己の不協和を抑圧すると捉えれば、新興宗教と同じと言われる所以を理解するのは簡単だった。

ちなみによく言われるビジョンを浮かべることや結果を意識することは、意思決定の研究ではハイリスクな行動を誘導させると結論が出ている。これも恐怖の抑圧であり、視野の限定に一役買うこととなる。

自己啓発本の内容を自分でやってみたら、モチベーションは高くなり、判断は早いがリスキーな方向に偏り、仕事量は増えるが配慮を無視しがちな人物になった。

基本的に、配慮領域の広さは能力に比例する。また、全体を見れることが心に余裕を生まれさせる。配慮領域を広げることの習熟は本来時間がかかり、また困難なことであるので、安易な方向に逃げないことが肝心と思う。

 

他には、作業を早く行う方法が分からなかったが、早い方法を模索すること、少しでも早い方法を取ること、物理的に早く動くこと、効率を重視し無駄な回数を減らすことを積み重ねたら、最終的に普通の人の半分に近い時間で終わらせることができるようになった。疲れは無視し続ければ感じなくなることが分かった。

 

芸術が苦手で、分からなかったが、絵の深さを感じとる、どんな風景を見ながら描いたか想像する、目に留まる場所=強調したいところ、線の流れ(力の向き)が上手く流れているか(無駄がないか)を意識すれば、理解できるようになった。製作者がどのような想いで強調して描いたのかと考えれば、芸術を楽しむのは簡単となった。

投影法として理解するには、左半分が内界、右半分が外界、上が形而上的世界(救い)、下が無意識(トラウマ)、右上の領域が理想や向かうべき方向、右下の領域が家庭や身近な環境、左下の領域が本能的エネルギーの源泉、左上の領域が立派な精神、右が未来、左が過去と、どうエネルギーが流れ表現されているかを見れば簡単に理解ができる。

勿論、芸術は分析などという野暮なことはせず、只々感動する。

 

サイコパスは歩き方で弱さが分かると言うのがよく分からなかったが、歩き方や動き方から受ける印象から、その人の行動(反応)の限界を様々に想像することをしてみたら、同じことが簡単にできた。職業と年収、交際関係と両親のタイプと心理状態くらいは、印象の範疇とそう違わないんじゃないだろうか。裏を取ったら大体当たっている。

 

メンタリストDaigoが何故当たるのかが分からなかったが、暗示誘動を見ること、微表情を読むこと、その人の思考(嗜好)の限界を読んで確率を割り振れば、同じことが簡単にできた。

 

あとは、

性的なことは嫌悪感情を潰し、離人感の延長で相手がゾンビだと思えば何時間と行為するのは簡単だった。

テクニックが分からなかった。自分が気持ち良くなく相手がして欲しそうなことをすれば満足させることは簡単だった。

激情が分からなかった。何も考えずに一線を踏み越えて身を任せれば簡単だった。

 

昔は恐怖心が強かった。

自分以外の人が怖かった。人それぞれに魂があって死後天国に行くと信じれば怖くなくなるのは簡単だった。

他人の目が怖かった。自分の持っている権威や保身を全て捨てれば怖くなくなるのは簡単だった。

失敗が怖かった。目標ではなく目的を意識して最善ではなく最良の選択をし続ければ怖くなくなった。

暴力が怖かった。自分が相手よりも危険な人間になれば怖くなくなるのは簡単だった。最終的には相手が六本木のやくざだろうと脅されようと恐怖を感じることなく丁重にもてなせた。

抑鬱感情に呑み込まれることが多かった。因果律を細かく分解し、自罰思考から他罰思考に切り替えてリスク管理の不備を責めれば感じずに済むようになった。罪悪感や悲しみは、思考として形を成す前に抹殺して墓の下に放り込んだ。

 

昔から、分からないものは自分に問いかけるか、分かる人から本質を抽出して盗み出せば簡単だった。

 

相手を受け入れるのが苦手だった。全てを受容して肯定すれば意味が見えて、相手の人生と感情を読むことは簡単だった。

 

どれもこれも前世のことのようだ。

 

暗いな。