アドラー系の本を読んで

今一番売れているであろうアドラーの読み物から、適当に要点と批評をまとめたい。


アドラー心理学は、反証可能性がないため自然科学ではないという批判がある。ユングフロイトも同様の批判を受けている。これに対して、ユング現象学的立場を取る。この本によるとアドラーは哲学であるとしている。宗教との相違点は神話を排除する点と、ドグマ思想に陥らないことにあるとしている。無知の知という態度を取り、人間知の学問であるとしている。哲学というよりは思想と言えるかもしれない。ユングもドグマ思想を嫌ったが、神話を重視した点は差異である。

ちなみに、フロイトは因果論を唱えたが、簡単に言ってしまえば、原因が大したことがないことが分かれば、カタルシスとともに意志により結果も変えられるという信念に根ざしている。一方ユングは、因果を見るには神話や昔話、関連する象徴学を援用することが有効であるとし、心的要素が結晶された象徴として夢や芸術を重視した。結局、因果が分かるだけでは(解釈では)変わらないこともあり、自我の因果から外れた自己(self)による夢や共時性を自我に取り入れて努力することにより、解決するとした。

余談だが、フロイトで役に立つのはエリクソンに繋がる発達段階説が一般向けの説明として有用。ユングはセンスがあれば見立てに役に立つ。アドラーは感情の使用の洞察が有用かと思う。

以下本の要約と批評。


アドラーは自他の課題を切り分けることが大切と説く。最終的な責任を引き受ける人の課題であるとする。自他の課題に介入することは依存を招くので忌避される。

最終的な目標は、優越性に基づく自立した行動と、共同体感覚による社会と調和した行動を取る人物である。簡単に言えば、自他の区別がしっかりした共感性の高いできる人。


共同体感覚の基礎として、共感が挙げられている。共感とは、相手の心と人生から、課題と問題行動にまつわる感情を想像し体験する技術、としている。さらに共感の基礎として、その人のありのままの個性に対する尊敬と、その人らしく成長発展することを尊重する態度が挙げられている。このあたりはロジャースの来談者中心療法のように見える。自分の感覚として付け加えるならば、自他の課題の分離を極限まで高めて集中すれば、共感はより容易くなる。

共感に基づく尊敬が、間接的な勇気づけになるとのこと。

共感は確かに幸福な共同体感覚であるが、見立てのない共感は危険であることは指摘したい。


アドラーは因果論そのものを棄却する。何故なら感情は目的を持っており、因果はその根拠として使用され、多くは現実から目を背ける目的を持つからという。アドラーは劣等感の補償を努力の原動力とみなし、問題から目を背けることを劣等コンプレックスとして批判した。

過去の因果は自分の都合の良いように編纂されるとしている。例えば、現状を肯定する目的で不幸な過去が美談として語られたり、悪いあの人や可哀想な自分の話が現状維持のために持ち出される。

自分が変わることはある意味で死ぬことと同義であるので(死と再生のモチーフ)、人は変わりたがらないが、相手を信頼し今ありのまま目の前の姿を認められることで、これからを自発的、建設的に考えることが勇気づけられるという。

確かに、今ここの重要性は強調して然るべきであり、感情や問題行動が、ある意味で自分にとって都合がいいことも事実である。実際、感情による顔や声の表情は特定の行動を生理的に誘発させる目的(仕組み)を持っている(悲しみ表情で周囲の人間の助力が得られるなど)。

共感性と建設的志向は、共同体感覚における貢献的態度へと接続する。


力への意志による問題行動5つ。

1.賞賛欲求

2.注目喚起

3.権力争い

4.復讐

5.無能の証明

実際に見て体験して思うのは、ありのままを認める空間を提供することは下に行く程難しい。実は課題の分離も下に行く程できていたりするので、共感を求めない傾向も強まる。一方、共同体感覚がないかというと、そうでない場合もあるので厄介である。


賞罰について。まず罰は、権力関係の維持を目的としており、暴力の行使を視野に入れた手段であるため、推奨されない。加えて共感という立場も欠く。権威関係による保身と無責任さを回避するために、自立を目標にすることが大切としている。

賞賛に関しても、上位者による自尊感情の操作として結果的に競争原理を招き、ひいては不信と不正の温床となるとしている。

結局、自己価値の評価を他者に求めずに、自立して劣等感の補償の努力を続け優越性を目指し、共同体への貢献を目指すべきとしている。

まとめるなら、孤独(自他の課題の分離)と自立(優越性と責任)と共同体感覚(尊敬と尊重)があり自分で主体的に決定する人物像である。


人間の問題はすべて対人関係の問題であり、責任は自分と相手(共同体)にある。相手の信念は変えられないので主に自分の責任を考えなければならない。ここではメサイアコンプレックスが問題にされている。自分が知らずのうちに上位者(救世主)となり対等の地平に立たなくなると、共同体感覚が成り立たない。共同体感覚は対等の地平に存在する。


交友のタスクと仕事のタスクについて。交友のタスクは自分を信頼し相手に条件をつけず信頼を寄せること。仕事のタスクは合理的に分業を行い条件つきの信用を寄せること。仕事でも誠実さと熱心さが信頼に結びつくという。

信頼は信じることと同義であり、嘘があろうと存在そのものを信じる勇気が必要と説く。自分が信頼して投げかけた後は相手の自由とする(課題の分離)。

しかし普通、投げかけられた方は自分の問題と責任である、と裏の内容も受け取るので行動が期待された方向に縛られやすくなると思われる。共同体感覚に適合しているかが、是か非かと問われる感じも受ける。


愛のタスクは、自分と相手で継続して愛を与え続けること。自分を愛し、他者を愛する。自立を果たし共同体(自分達)を能動的に愛し、利他の幸福を築きあげる。それは人類への貢献であり、自己中心性からの脱却を意味する。

非常に宗教のような急進的な思想のような論法でまとめられていると思う。

最後に、可能性でなく存在を信じ、決断を胸に最良の別れに向けた不断の努力をすべしとまとめられている。


補足で政治的な傾向。

地位からの転落と返り咲きの欲望が過去への執着を生み保守的で権威主義的思想を醸成する。

次に地位を努力では手に入れられないと反権威主義的な革命志向を醸成する。

最後に既存権力に不安があると悲観論と臆病さを醸成する。

傾向があるとまとめている。


概観としては孤独としての課題の分離と、感情の目的性、共感の記述のあたりは面白かった。

ただ、非情な合理性に裏打ちされたコモンセンスに反する緻密で論理的な組み立て方は、設計主義に通ずる左翼的思想の感覚があった。後書きを読みアドラー共産主義に傾倒していたと知り納得できた。

現在の日本は西洋化と、日本的な共同体の融合の要請を受けている。アドラー心理学は西洋における自我の確立された人間が共同体に貢献するモデルとして考えられたものなので、現在の日本の時流とマッチングしやすく、流行っているのだと思われた。


ちなみに、日本は責任の所在が分かりづらく、西洋よりも混同しやすい。その点、自他の課題の分離をスマートに行うことは、近年日本では大人の対応として見る。という風潮も感じたりする。

西洋の文化土台なしで自立(=自我の確立)は、どこまでいけるだろうか。