ユング心理学と見立て

ユング心理学と見立てとの関連について、やや専門的に知り得ていることを書く。ユング心理学は基本的に、補償作用と展望の心理学である。

 

タイプ論。劣等機能の開発を通して全体性(totality)を得る。

外向的な人は内向的な側面を、内向的な人は外向的な側面を開発する必要がある。

思考タイプの人は合理的側面が強いので女性的な側面を、感情タイプの人は男性的な思考の側面を開発する。感覚タイプの人は神秘的側面を、直感タイプの人は現実的側面を開発する必要がある。

基本的には、補助機能として、外向的な人は思考か感覚機能を、内向的な人は感情か直感機能を用いる。未分化な機能を開発する際は、主機能を補助機能にずらして開発していく形となる。とはいえあくまで便宜上であり、臨床では男性的か女性的か、現実的な側面を強化するか情緒的な側面を開発するか、として見る。

 

コンプレックス。

コンプレックスに関しては、基本的にその人の未発達の課題がコンプレックスの塊まで発展しやすい。その人の特徴的な気質(強さもしくは弱さ)から考えると分かりやすくなる。基本的にはどの時期に課題を乗り越えるだろうかと見立てておき、本人が課題に直面した時や乗り越えようとした際に必要な情報や解釈や共感を与えて見守る(時熟)。

実際的には、投影と同一化が「嫌いな人」「苦手な人」に向けられ悪口や愚痴を言うのと、かなり歪んだ「良い人」像が語る人自身や他者に向けられるので、両価性を考えながら共感と指摘をする。

 

個人的無意識と普遍的無意識。心像と象徴。

夢や表現されたものには普遍的無意識が反映されることがあるが、その場合は元型を考える。例えば、太母(great mother)では地や子宮と、呑み込まれる死(もしくは安楽)がテーマであり、自我の確立に向けた合理的な強さを開発する必要がある。

他にいくつか挙げてみる。河の向こう岸へ渡ることは女性が男性性(自我確立)に向けて自己投棄する時期が来ていることを示している。あるいは男性は竜退治によってアニマ(女性か宝)を手にして自我を確立するし、女性は「知ること」を通して自我確立へと出発する、など。神話や昔話、象徴を拡充法(amplification)として伝えるときは、本人が展望を持って勇気付けられるときのみ行う。

基本的には、元型は展望を見るために有用となる。例えば影はその人が生きられなかった反面であり、適当に自我に取り入れることで解決する。子供は新しい可能性が生まれたことであり、その可能性を育てる必要があることを示している。トリックスターは統合性を乱し、権威的な一面性の改変が必要とされていることを示す。老賢者は成熟に向けた人格発展の展望を示す。

基本的には個人的無意識の心像を元型や象徴と結びつけて、補償されているものや展望を見る。心像や象徴を解釈するコツは、元型や象徴を先に知っておき、自分ではせいぜい元型と象徴的な連想をするくらいに留め、展望に向けた合理的な説明をいっぺんに感じ取ること。

基本的に上記について共感的な態度で接していると、ときに退行現象が生じてくるが、留意すべきは、まず第一にカタルシスによるストレス浄化効果、第二に依存形成について、第三に現実に戻れるか否か、最後に新たな可能性を取り入れた創造性を慎重に考慮する。

 

夢分析

基本的に夢が何を補償しようとしているか、展望を見せるか、あるいは警告しているかを見る。基本的に夢のなかで転換点といえるポイントでどう変化するか、夢を見る前と見た後で何か態度に変わったところはあるかを考える。知らない人(もしくは他人)の登場人物は心的要素として見て、身近な人は実在の人物との関係を見る(主客水準)。

夢においては、思考機能が刃として示され、感情機能が女性として表される。あるいは暴漢は自我に取り入れられていない男性性だったりする。結局、夢は過剰な表現にして見せるため、夢=本人であると考えない方が良い。夢の内容は無意識による赤裸々な描写ではあるが、主に補償作用を目的としているので、その人の自我にどう取り入れられたか、ということを含めて本人と考える。

死と再生のモチーフ。人は大きく変わろうとする際に死の経験に向かう傾向がある。実際に危険であるので細心の注意を払う。自殺傾向のある人や解離性人格障害の人には過度な直面化は避けるべき。

 

アニマとアニムス。自己。

思考が刃で、身体が力であるなら、ペルソナ(人格的な仮面)は鎧にあたる。さらにペルソナの内側には女性的な魂があると考える。精神(ガイスト)は風や精霊のようなものと考える。自己は精神から魂までを含む自分の中心と考える、という構図が基本的概念になる。

母親像(魔女や竜)を殺し分離した美しい女性像がアニマの基盤となる。男性においては太母から自立できているか(母子一体の段階)、性的なことを受け入れられているか(生物学的段階)、女性性と適切な関係を築けているか(ロマンチックな段階)、と進むのが実際のところ。

アニムスは父親像から分離した男性像となる。女性は基本的に父親を殺しはしなかったように思う。典型的なのは自分を好きと思ってくれている「足りない」父親から、小人を経由して、王子様へと進む。あとは感覚機能が強い筋肉質な人や、思考機能の高い知的な人がアニムス像となりやすい。意外と老賢者は女性の方に現れやすい気がする。

ちなみに男女ともに母親の影響による精神発達の歪みは大きい。男性は女性関係を見ると分かりやすく(マザコンなど)、女性は母親から心身のイメージの取り入れを図って混乱している場合(分かりやすいのは拒食症など)が多い。

結局、アニマやアニムス、父親像と母親像との過度な同一視は避け、適切な関係を築いていくことが大切とされる。

 

数字の意味について。

0はウロボロスなど全と無が混合した状態。1は個の自覚、2は対決と交流、3は発展と可能性、4は統合と安定、曼荼羅などを示す。夢や作品などで数に注目すると、段階が見えてくるものもある。

夢分析は個人で行うのは難しく、また夢診断と異なり人格発展の理論を援用するものであるが、象徴学的な解釈をしていそうな夢診断や夢占いなどを見ることでも、ライトに夢の補償効果を高めることができる。個人で行う場合は悪化する危険性があるので、暇つぶし程度の浅い感覚で楽しむことが必須と思う。

 

自我の確立と、無意識との適切な関係を築くことがユング心理学の目標となる。自己がコンプレックスを布置し、乗り越えるためのヒントを夢や無意識、共時性を通して教えるので、自我はそれを通して経験を積み、取り入れることで次第に自己実現が果たされるというモデルになる。ユング心理学の第一人者である河合隼雄は、因果律による操作性を排し、道(タオ)の道筋にその人を戻してあげることが大切と説く。

 

ユング心理学は、表現や作品といえるもの全てに対して適用することができる。象徴学的な分析の誘いとなるので、そのようにして楽しむことが良いと思う。

 

昔の記憶だが、思いのほか思い出すことができた。

象徴やモチーフや共時性が散りばめられていれば、まだ読んでいない物語の先を予測することはできるようになった。それはあたかも予知能力者のような気分で面白い。単に面白いからやっているだけで、これを他者に伝えていく気概はもう残ってはいない。
  
これからは、イデアや芸術について、もっと深く知りたいと思う。
 

創造性と気質について

遺伝的気質に関連する創造性と才能について、知り得ていることを書く。


一般的に天才とされる高IQについて。

IQが高い人は、概念形成能力が高く、すべてにおいて論理的整合性がとれている。概念的な思考の速度が速いので、反証性の検討が速い。結果として扱える情報量が多く、論理的で感情的にも整合性のとれる考えで解釈を行う。

ただ、大した話じゃなくても(論理的な整合性のない話でも)、論理的に筋道の通った解釈を探してしまう癖が見られる(類推して分かった振りをしなければならない機会が少ない為)。IQが20違うと会話が噛み合わないことがあり、平均IQの人との調整にストレスを感じる。少数派であるために高IQで恵まれていると感じることは案外少ない、とのこと。


芸術性の側面からの才能について。

芸術的IQ(才能)が高い人は、物事を抽象的なイメージとして捉え表現する能力を持っている。抽象化にかけるエネルギーが強く、それでいて本人のなかで統合性がとれている。

ただ、感性に周囲の人がついていけないと(抽象化されたことを感じとることができないと)変わり者扱いを受ける。本質的な部分を分かられる人が少ないために、信頼できる人の選別がシビアになる。


芸術性に関わる人には、頑固な気質の人が多いように思う。

頑固なことは一見ネガティブだが、段取りの細かさは成功体験に根差しており、納得のいくクオリティを追究するために生じてくる。


芸術的才能と精神障害との関連。

芸術作品を作る際に、無意識の深いレベルに(不随意的に)アクセスしやすい傾向がある人(統合失調症傾向)。創造されたものは人類に普遍的に深い心像を持ち、神話などの創造力とも親和性がある。無から有を生み出す。

ただ、無意識のレベルが深いために個人的な不安感による幻覚が現実のものと感じられたり、実際に知覚領域が連動して見えたり聞こえたりするような危険に踏み込んでいく場合もある。


多動傾向のある人。無意識の浅い領域に(不随意的に)アクセスしやすい。移り変わる興味の幅広さと、多領域を連関させた創造性を発揮する。そういった人は、選択肢や関心領域が限定された際に集中力(過集中)を生み出す。有から有を生み出していく創造性。

勿論、注意の焦点化の機構が機能しないことや、関心領域の思考が圧倒することで、実生活上で種々の問題が生じてくることもある。


局所的に脳血流が多いことがあり、ずば抜けた計算力の高さや、イメージ記憶能力による精密な再現を得意とする人(アスペルガー傾向やサヴァンなど)。一部の人には数字を(イデアのように)美しいと感じる感性がある。

勿論、規律的な理解だけで物事を理解するように限定されてきたり、刺激の抑制が効きにくいことがあると、種々の問題が生じてくる。


共感覚者。多領域の知覚連動(共感覚)が実際にあり、感覚的な美しさと合わせて独自の芸術性を発揮する人。

自分の感覚を他者と共有することはできないので(同じ共感覚を持つ人は一人としていない)、感覚という確かなもの(クオリア)に執着しやすい傾向がある。


補足で芸術性とは直接関連しないが、仕事などで有利なデザインを考えるのに有効な気質。

サイコパス(精神病質)傾向のある人。恐怖と驚愕反射が弱く、自尊心が高い。ミラーニューロンのオンオフを切り替えることで、功利主義的な発想を考える。また、他者操作的な発想を考え出す力も強い。

恐怖、不安傾向が強く、道徳社会化が発達した人。こちらは思いやりがある社会デザインを考える才能がある。不安傾向が高い方が、安心を得るために計画能力を身につける。

不安が強い一方で必要に迫られる基準の高さがある人(強迫傾向)。その人に強い意志がある場合は、周囲が不安に思うより先に自分で手を打ち、抜けのなさ、セキュリティ意識の高いデザインを考える才能がある。


才能は何もないところに生まれる訳でない。

一見して良き才能とされていることにも弊害はある。才能の裏の本人の苦悩は見落とされやすく、同時に、見えない努力によって才能を掴んでいることもある。

才能は無闇に羨むものではない、と思う。


アドラー系の本を読んで

今一番売れているであろうアドラーの読み物から、適当に要点と批評をまとめたい。


アドラー心理学は、反証可能性がないため自然科学ではないという批判がある。ユングフロイトも同様の批判を受けている。これに対して、ユング現象学的立場を取る。この本によるとアドラーは哲学であるとしている。宗教との相違点は神話を排除する点と、ドグマ思想に陥らないことにあるとしている。無知の知という態度を取り、人間知の学問であるとしている。哲学というよりは思想と言えるかもしれない。ユングもドグマ思想を嫌ったが、神話を重視した点は差異である。

ちなみに、フロイトは因果論を唱えたが、簡単に言ってしまえば、原因が大したことがないことが分かれば、カタルシスとともに意志により結果も変えられるという信念に根ざしている。一方ユングは、因果を見るには神話や昔話、関連する象徴学を援用することが有効であるとし、心的要素が結晶された象徴として夢や芸術を重視した。結局、因果が分かるだけでは(解釈では)変わらないこともあり、自我の因果から外れた自己(self)による夢や共時性を自我に取り入れて努力することにより、解決するとした。

余談だが、フロイトで役に立つのはエリクソンに繋がる発達段階説が一般向けの説明として有用。ユングはセンスがあれば見立てに役に立つ。アドラーは感情の使用の洞察が有用かと思う。

以下本の要約と批評。


アドラーは自他の課題を切り分けることが大切と説く。最終的な責任を引き受ける人の課題であるとする。自他の課題に介入することは依存を招くので忌避される。

最終的な目標は、優越性に基づく自立した行動と、共同体感覚による社会と調和した行動を取る人物である。簡単に言えば、自他の区別がしっかりした共感性の高いできる人。


共同体感覚の基礎として、共感が挙げられている。共感とは、相手の心と人生から、課題と問題行動にまつわる感情を想像し体験する技術、としている。さらに共感の基礎として、その人のありのままの個性に対する尊敬と、その人らしく成長発展することを尊重する態度が挙げられている。このあたりはロジャースの来談者中心療法のように見える。自分の感覚として付け加えるならば、自他の課題の分離を極限まで高めて集中すれば、共感はより容易くなる。

共感に基づく尊敬が、間接的な勇気づけになるとのこと。

共感は確かに幸福な共同体感覚であるが、見立てのない共感は危険であることは指摘したい。


アドラーは因果論そのものを棄却する。何故なら感情は目的を持っており、因果はその根拠として使用され、多くは現実から目を背ける目的を持つからという。アドラーは劣等感の補償を努力の原動力とみなし、問題から目を背けることを劣等コンプレックスとして批判した。

過去の因果は自分の都合の良いように編纂されるとしている。例えば、現状を肯定する目的で不幸な過去が美談として語られたり、悪いあの人や可哀想な自分の話が現状維持のために持ち出される。

自分が変わることはある意味で死ぬことと同義であるので(死と再生のモチーフ)、人は変わりたがらないが、相手を信頼し今ありのまま目の前の姿を認められることで、これからを自発的、建設的に考えることが勇気づけられるという。

確かに、今ここの重要性は強調して然るべきであり、感情や問題行動が、ある意味で自分にとって都合がいいことも事実である。実際、感情による顔や声の表情は特定の行動を生理的に誘発させる目的(仕組み)を持っている(悲しみ表情で周囲の人間の助力が得られるなど)。

共感性と建設的志向は、共同体感覚における貢献的態度へと接続する。


力への意志による問題行動5つ。

1.賞賛欲求

2.注目喚起

3.権力争い

4.復讐

5.無能の証明

実際に見て体験して思うのは、ありのままを認める空間を提供することは下に行く程難しい。実は課題の分離も下に行く程できていたりするので、共感を求めない傾向も強まる。一方、共同体感覚がないかというと、そうでない場合もあるので厄介である。


賞罰について。まず罰は、権力関係の維持を目的としており、暴力の行使を視野に入れた手段であるため、推奨されない。加えて共感という立場も欠く。権威関係による保身と無責任さを回避するために、自立を目標にすることが大切としている。

賞賛に関しても、上位者による自尊感情の操作として結果的に競争原理を招き、ひいては不信と不正の温床となるとしている。

結局、自己価値の評価を他者に求めずに、自立して劣等感の補償の努力を続け優越性を目指し、共同体への貢献を目指すべきとしている。

まとめるなら、孤独(自他の課題の分離)と自立(優越性と責任)と共同体感覚(尊敬と尊重)があり自分で主体的に決定する人物像である。


人間の問題はすべて対人関係の問題であり、責任は自分と相手(共同体)にある。相手の信念は変えられないので主に自分の責任を考えなければならない。ここではメサイアコンプレックスが問題にされている。自分が知らずのうちに上位者(救世主)となり対等の地平に立たなくなると、共同体感覚が成り立たない。共同体感覚は対等の地平に存在する。


交友のタスクと仕事のタスクについて。交友のタスクは自分を信頼し相手に条件をつけず信頼を寄せること。仕事のタスクは合理的に分業を行い条件つきの信用を寄せること。仕事でも誠実さと熱心さが信頼に結びつくという。

信頼は信じることと同義であり、嘘があろうと存在そのものを信じる勇気が必要と説く。自分が信頼して投げかけた後は相手の自由とする(課題の分離)。

しかし普通、投げかけられた方は自分の問題と責任である、と裏の内容も受け取るので行動が期待された方向に縛られやすくなると思われる。共同体感覚に適合しているかが、是か非かと問われる感じも受ける。


愛のタスクは、自分と相手で継続して愛を与え続けること。自分を愛し、他者を愛する。自立を果たし共同体(自分達)を能動的に愛し、利他の幸福を築きあげる。それは人類への貢献であり、自己中心性からの脱却を意味する。

非常に宗教のような急進的な思想のような論法でまとめられていると思う。

最後に、可能性でなく存在を信じ、決断を胸に最良の別れに向けた不断の努力をすべしとまとめられている。


補足で政治的な傾向。

地位からの転落と返り咲きの欲望が過去への執着を生み保守的で権威主義的思想を醸成する。

次に地位を努力では手に入れられないと反権威主義的な革命志向を醸成する。

最後に既存権力に不安があると悲観論と臆病さを醸成する。

傾向があるとまとめている。


概観としては孤独としての課題の分離と、感情の目的性、共感の記述のあたりは面白かった。

ただ、非情な合理性に裏打ちされたコモンセンスに反する緻密で論理的な組み立て方は、設計主義に通ずる左翼的思想の感覚があった。後書きを読みアドラー共産主義に傾倒していたと知り納得できた。

現在の日本は西洋化と、日本的な共同体の融合の要請を受けている。アドラー心理学は西洋における自我の確立された人間が共同体に貢献するモデルとして考えられたものなので、現在の日本の時流とマッチングしやすく、流行っているのだと思われた。


ちなみに、日本は責任の所在が分かりづらく、西洋よりも混同しやすい。その点、自他の課題の分離をスマートに行うことは、近年日本では大人の対応として見る。という風潮も感じたりする。

西洋の文化土台なしで自立(=自我の確立)は、どこまでいけるだろうか。



共時性について

共時性について知り得ていることを書く。


共時性(synchronicity)とはユングが用いた概念で、意味ある偶然の一致と解される。しばしば喧伝される精神電流などの偽科学的な解釈は危険であり、注意深く観察することが大切とされている。カウンセラー、クライエント共に共時性(synchronicity)が起こりやすい人と起こりにくい人が存在する。


共時性について思いつく説明は以下の通り。

1.乱数調整

量子力学に見られるように観察が状態を変化もしくは決定させる。また、極めて初期の偏差が大きく未来を左右させる。環境によってエントロピーが変動するが、その大きな流れを認知することが共時性の認知として知覚される、と自分は考える。

この考えによれば占いの相関関係や先祖の縁、宗教や因果律による影響を包括的に理解できる。ある程度影響を受ける者はクラスタごとにまとめられており、そのことを発見した時に偶然の一致に驚く(一種の感動を覚える)。神や超越的存在や宇宙の物理法則などによって操作もしくは決定されているのかどうかは不明。


2.引き寄せの法則

いわゆるスピリチュアル的なハウツーとして解釈される。万物や色、音、言葉には波長があり、波長が合うものは引き寄せられ、波長が合わないものは遠ざけられる。従って、意識の上で良いものを思い浮かべていれば良いものを引き寄せ、悪しきものを思い浮かべていれば悪しきものを引き寄せるので、ポジティブシンキングやビジョンが大切と説く。潜在意識が引き寄せる影響も大きいので、自分を愛することや、受け入れること、潜在意識を肯定的に導く祈りなどが大切であることが同時に主張される。

自己啓発系ではマーフィーの法則が有名。都合の悪いものから目を背けるようになると逃避的な人間性を助長させ、同時に特異的なものに執着、依存する傾向が強く見られやすくなることは指摘したい。


3.認知科学

人間や動物は生理状態(空腹などの欠乏感)や感情と気分により、強化学習された刺激もしくは先天的な刺激(解発刺激)の閾値が低下する。関心事がある場合も関連した領域の刺激を認知しやすくなる(妊娠してからマタニティマークや妊婦をよく見かけるようになるなど)。刺激の同定(identify)には自我における認識との時間差があるため、実際には出現頻度が変わらないものをよく見かけるという現象が生じる。記憶の中の刺激の同定も同様である(名前や誕生日や出身地が近いなど)。神経生理学的な希求活動が基盤となるが、本人がそこに因果律や意味(meaning)を見出せないとき、偶然の一致であると感じる。

とはいえ出来すぎていると感じるような偶然の一致もあるが、人間の記憶容量は膨大であり、意識下に登らない連合された学習(先天的なものもある)もまた膨大であるため、科学的な手法で理解することが難しくても、不思議ではない。


4.ユング心理学

ユングは、人間には自我が意識しない自己実現欲求があり、劣等機能の開発や、神話や昔話などに見られる普遍的な発達課題をクリアするために特徴的な心像(image)やコンプレックスを自己(self)が布置すると考える(constellation)。

従って、全体像を見て浮かび上がるコンプレックスや発達課題について考えるとともに、課題解決に向けて無理をしない程度に努力すべきであり、因果律に囚われていては見落としてしまうこともあるとユングは主張する。

共時性は、因果律に囚われないものの見方であるとしている。また、取り組むべき一つの課題解決に向けたヒントとされるので(自己による自作自演だが)、この考えに従えば、共時性が生じるのは基本的には良いことであり、そのことに励まされ現実的な努力を続けるのが良いとされる。


色々経験してただ一つ言えるのは、共時性(synchronicity)がある方向に進んで行けば後悔しないということだ。

挑戦の足跡

苦手なことを克服してきたノウハウを書きたいと思う。

 

小学生の頃は友達ができなかった。それは転校を機に友達を好きになることで簡単に解決した。

好意の返報性が人には備わっているから、その人のことを好きだと思って接すれば好かれることは簡単だった。自分が傷付かないように面白いキャラクターを演じ、楽しませれば大体の人には好かれる。

スポーツはできなくても器械体操でバク転までできれば悪い風には取られなかった。

 

中学生は自分の勉学の才能の無さに辟易した。国語の読解も才能がなく苦手だったが、先生の「正しい読み方」を細かくメモし、出題者の意図を読んで解答すれば簡単だった。論外な選択肢は除外し、迷うものは根拠となる裏を取って、選択すれば大体合っている。覚えれば落とさない問題を完璧にしておけば、最期の学年末テストで満点を取ってトップになるのは簡単だった。

 

高校では苦手な先輩がいた。尊敬もできないパワープレイで押してくるような人。相手の先の先を取って完封すればボコボコにするのは簡単だった。

他人の心の痛みが分からなかった。「いい人」とされる人が自殺する理由も分からなかった。鬱病のチェックシート通りに考え、行動すれば、ネガティブに考えてしまう人の気持ちを体感するのは簡単だった。

リストカットをしているのに普通の人と同じようにしている人のことがよく分からなかった。自罰的な考えで自分を追い込み、リストカットすれば、リストカットをする人の気持ちが分かった。浅くしか切れなかったが、自分の保身から来る一線を踏み越えれば最終的には静脈まで切るのは簡単だった。普通にしていることは、不幸を受け入れて他人と共有しないようにすれば簡単だった。

助けたい相手との共依存を避ける方法が分からなかった。見立て(見通し)を持って当たることで解決した。

音楽が苦手だった。家にあったギターを四六時中弄ってたら一ヶ月で使われるコードは全て抑えられた。バンドを組んで1日10時間の練習をしたら誰よりも早く上達するのは簡単だった。

大学を受験するつもりがなかったが受験することになった。歴史を全く覚えていなかったが、政治経済に転向したら一ヶ月で合格ラインに乗った。受験勉強は二ヶ月で終わった。最終的にセンター試験は国語9割でねじ込めた。

 

大学に入ったが、カウンセリングの見立ての立て方が分からなかった。発達段階(ライフステージ)的理解と、性同一性の理解、分析心理(神話・象徴)学的理解と、家族(病理)分析、遺伝気質学的理解で大体の見立てが立てられるようになった。最終的には30代のカウンセラーと同じ見立てが立てられるようになった。

最初は寄り添い方が分からなかった。それに対しては相手の話に頷くこと、最大限関心を持つこと、驚いて見せたり、感情豊かにコメントすること、相手の話を否定しないで、理想と現実のギャップに共感することをしていれば、最低限話を聞くことは簡単だった。

そこからは相手のコンプレックスを意識しながら話を聞き、その枠組みに沿って言葉を返すことを重ねた。当時は音楽の歌詞を聞きながら言葉のニュアンスを違えないように言い直すことを練習したりしたっけ。

最終的には要約、共感、解釈を繰り返せばそれらしくなった。相手の目線から映る自分をイメージし、共感しているように見えるように自制すること、傷付きの核心を深いところから取り出してその痛みを声色に滲ませて明確にすれば、相手を涙させることまでは簡単ではなかったが、できた。

実習に当たるときは、必ず前回までの内容を見返すこと、今回話した内容を全て逐語録に起こすこと、寝る前に解釈をまとめてSVに報告すること、翌日解釈を見直すことを徹底して行っていたっけ。

結果も出て、県トップの心理士の先生から才能があるって言われたりしたっけ。他人の心が分からないのに。

論文が苦手だった。フォーマットを完璧にして、明確に簡潔に書くことをしたら簡単だった。

 

大学卒業後、占いに興味を持ったが、占いが存在する理由が分からなかった。占いをしてみたら第六感でスケッチしていたところが簡潔に示されていた。周期の根拠は理解できないが、星座を類型的に理解して数を象徴学的に理解することはできた。

政治で「正論」と持て囃される意味が理解できなかった。感情的な不利益や被害感から出発して一貫して合理的な理屈を並べて攻撃をすると理解すれば簡単だった。

新興宗教が沢山あることが理解できなかった。キリスト教系、仏教系、神道系、サイキック系を土台に、信仰者を非信仰者より格上に定義付け、教義で行動を制限し、信仰者の価値を上げたり下げたりして自尊感情を揺さぶり、ユートピアや共同体を掲げ一方で恐怖を煽り布教行動を誘導し、金を効率的に巻き上げる仕組みとして理解したら簡単だった。最終的には(依存によって抑圧された)恐怖心による行動支配が本質と理解することができた。

 

自己啓発系の仕事術がなぜ良くないと言われるか分からなかったが、物事を単純化して因果律として捉え、習慣化して自己の不協和を抑圧すると捉えれば、新興宗教と同じと言われる所以を理解するのは簡単だった。

ちなみによく言われるビジョンを浮かべることや結果を意識することは、意思決定の研究ではハイリスクな行動を誘導させると結論が出ている。これも恐怖の抑圧であり、視野の限定に一役買うこととなる。

自己啓発本の内容を自分でやってみたら、モチベーションは高くなり、判断は早いがリスキーな方向に偏り、仕事量は増えるが配慮を無視しがちな人物になった。

基本的に、配慮領域の広さは能力に比例する。また、全体を見れることが心に余裕を生まれさせる。配慮領域を広げることの習熟は本来時間がかかり、また困難なことであるので、安易な方向に逃げないことが肝心と思う。

 

他には、作業を早く行う方法が分からなかったが、早い方法を模索すること、少しでも早い方法を取ること、物理的に早く動くこと、効率を重視し無駄な回数を減らすことを積み重ねたら、最終的に普通の人の半分に近い時間で終わらせることができるようになった。疲れは無視し続ければ感じなくなることが分かった。

 

芸術が苦手で、分からなかったが、絵の深さを感じとる、どんな風景を見ながら描いたか想像する、目に留まる場所=強調したいところ、線の流れ(力の向き)が上手く流れているか(無駄がないか)を意識すれば、理解できるようになった。製作者がどのような想いで強調して描いたのかと考えれば、芸術を楽しむのは簡単となった。

投影法として理解するには、左半分が内界、右半分が外界、上が形而上的世界(救い)、下が無意識(トラウマ)、右上の領域が理想や向かうべき方向、右下の領域が家庭や身近な環境、左下の領域が本能的エネルギーの源泉、左上の領域が立派な精神、右が未来、左が過去と、どうエネルギーが流れ表現されているかを見れば簡単に理解ができる。

勿論、芸術は分析などという野暮なことはせず、只々感動する。

 

サイコパスは歩き方で弱さが分かると言うのがよく分からなかったが、歩き方や動き方から受ける印象から、その人の行動(反応)の限界を様々に想像することをしてみたら、同じことが簡単にできた。職業と年収、交際関係と両親のタイプと心理状態くらいは、印象の範疇とそう違わないんじゃないだろうか。裏を取ったら大体当たっている。

 

メンタリストDaigoが何故当たるのかが分からなかったが、暗示誘動を見ること、微表情を読むこと、その人の思考(嗜好)の限界を読んで確率を割り振れば、同じことが簡単にできた。

 

あとは、

性的なことは嫌悪感情を潰し、離人感の延長で相手がゾンビだと思えば何時間と行為するのは簡単だった。

テクニックが分からなかった。自分が気持ち良くなく相手がして欲しそうなことをすれば満足させることは簡単だった。

激情が分からなかった。何も考えずに一線を踏み越えて身を任せれば簡単だった。

 

昔は恐怖心が強かった。

自分以外の人が怖かった。人それぞれに魂があって死後天国に行くと信じれば怖くなくなるのは簡単だった。

他人の目が怖かった。自分の持っている権威や保身を全て捨てれば怖くなくなるのは簡単だった。

失敗が怖かった。目標ではなく目的を意識して最善ではなく最良の選択をし続ければ怖くなくなった。

暴力が怖かった。自分が相手よりも危険な人間になれば怖くなくなるのは簡単だった。最終的には相手が六本木のやくざだろうと脅されようと恐怖を感じることなく丁重にもてなせた。

抑鬱感情に呑み込まれることが多かった。因果律を細かく分解し、自罰思考から他罰思考に切り替えてリスク管理の不備を責めれば感じずに済むようになった。罪悪感や悲しみは、思考として形を成す前に抹殺して墓の下に放り込んだ。

 

昔から、分からないものは自分に問いかけるか、分かる人から本質を抽出して盗み出せば簡単だった。

 

相手を受け入れるのが苦手だった。全てを受容して肯定すれば意味が見えて、相手の人生と感情を読むことは簡単だった。

 

どれもこれも前世のことのようだ。

 

暗いな。

 

AIと国教

AIに関しての考え方の差異と宗教的考察。


西洋はキリスト教圏。キリスト教は人間にとって自然は統べるものとされる。従って、神>人間>家畜>自然の序列。

AI(機械)は家畜と同列とされるが、家畜の序列が人間と同等もしくは、それ以上になることを恐れる。

猿(家畜同然のもの)が人類に反逆する、AIが人類に反逆する等。一方で、家畜(奴隷)が人間と同等の権利を持つか、AI(奴隷)が人間と同等の権利を持つかといったことが議論される。


日本では、神道と仏教が普遍的。神道では、神>自然>家>人間の序列。仏教では空>人間>色の序列。

西洋では神のすぐ下が人間のため、恋と愛は人間と結びつけられ、自我の確立としても心理的に重要視される。日本では、家が人間より上位であり、仏教的にも色恋沙汰は下位であるため、恋愛と自我確立は忌避される。

AIは日本では家と共存できる存在、もしくは生活を壊さない対象としてなら受け入れられる。家庭を壊す『欲』となる場合は恐れる。

近年日本も考え方がキリスト教圏に近付いているものの、まだまだ一般層では家>人間>欲(AI)の傾向が強い。


それが西洋と日本においてのシンギュラリティ(技術的特異点)に関しての危機感(恐怖心)の本質的な差異に表れている。

意識の真相

小さな頃、哲学的ゾンビについてや、世界5分前起源説、物質と意識の連続性から、仏教的な色即是空、魂について考えていたが、結論はデカルトのように「我思う故に我あり」意識のみが信じられると結論付けられるようになった。


しかし、ここにその反証を展開してみよう。

意識受動仮説のように、意識はあたかもペンライトの残像のように、行動が先にあり、意識はそれを後追いしているに過ぎないという仮説がある。

つまり、意識される行動にまつわる理由付けや、感情さえも、脳の速度計の観測機能に過ぎないと結論付けられる。

とすれば、実際は行動のみを観察すれば良く、行動心理学者はそのようにして心を解釈してきた。


アドラー心理学では、感情を道具として使用していると洞察する。つまりは、人間の合理的な理由付けや感情には目的を持った演技として解釈する見方も成立するという。

これを拡大すれば、人間の人格やユングの言うペルソナというものも、一つのまとまりある体系を持った道具に過ぎないと結論付けることができる。実際、人間は場面場面において人格が少しずつ違う。

多重人格障害さえも、根幹となる存在や魂なるものが先にあり、人格を道具として使用しているという見方も成立する。

平易な言葉で説明するなら、人格はその人間の一側面として存在するということだ。言葉にすれば簡単だが、人格が人間の中心でないのなら何が人間の中心なのか、という議題を考えなければならないだろう。ユングは自己(self)と言ったし、宗教家は魂と答えるだろう。アドラーは意志、だろうか。

AIにおいては、まだ人間の特徴検出とAIの特徴検出は異なったアルゴリズムを使用しているようだが、人格体系を持ったアウトプットが可能になれば、そこに見分けは付かなくなるだろう。たとえ意識(自我)という機能が搭載されていなかったとしても。

行動を見ていれば、推論してそこから人となりを想像してしまう。


カウンセリングを行うと、人間の行動を変えることの難しさに直面する。

意識はなかなか変わらないし、意識を変えたとしても行動を変えることは難しい。結論としては、クライエントの「時熟」の手伝いをしているということしかできない。論理的な考え方や合理的な行動を「教える」ということはできるが。


結局、人間を環境に放り込めば、何回やっても長い時間をかけて殆ど同じ結果になるだろう。つまり、環境や、その人と環境との関わり方が重要であり、それが少しずつ変わることによってしか、人間は変わらない。

とするなら、環境を軽視した自己啓発は正しく無理を生ずるもので、体系的な変化が起こらなければ、傍目からは不可思議な奇異なものとしてしか映らない。

もし意識がペンライトの残像なのなら、残像でいくら考えても軌道を変えることはできず、次にペンライトを振るその瞬間に変えてなくてはならない。

こうなると、それは最早反射神経的なレベルの問題になってきて、神経生理学的な変化が生じないといけないということになる。実際、鬱病などの精神疾患や悪い習慣を変えるということは、神経生理学的な基盤の変化を必要とし、ある程度の時間がかかる。

人間が変わりたければ、意識や行動を変えたいと思うだけでは十分でなく、とりまく環境や人格へと体系的な変化が生じなければならない。その点において、宗教や自己啓発セミナーで効果的なものは、効果的であればあるほど、危険性が高いということは指摘できる(つまり恣意的に人格と環境との関わりを変える力を持つということ)。


人間にもし魂があるとすれば、魂は人格や意識、その基となる身体性を利用しているだろう。

行動そのものは身体性を含む環境の因果に規定されており、意識は原因でなく、結果の一つに過ぎない。


また、AIには意識(自我)の機構を搭載する必要はなく、人間の意識もまた、人格や魂に支配されているのであれば、意識の存在理由には揺らぎが生じてくる。

「意識(自我)がない存在」も、十分非現実的な考えとは言えなくなってくる。


アドラーフロイトはエネルギーのようなものとして見たし、魂もまたエネルギーのようなものと言えるのかもしれない。実際、魂などの非物理的なエネルギーが脳内の量子に影響を与えるというモデルは考えられ始めている。

あるいは、神秘主義者は神というかもしれない。スピリチュアルでは宇宙の意志や万物の作用というかもしれないし、天体は途方もない周期性を持ち、占星術は天体の周期性を拠り所として支配星というものを考えている。

さて、面白いことに、仮に宇宙人がいたとしても、地球人と同じように意識(自我)がなければならないという必要性もないのだ。意識を持たないAIのような存在が、宇宙人では当たり前の世界があるかもしれない。


言葉はコミュニケーションに使用されるのであって、必ずしも概念の理解に使用されるわけではなく、頭の中で言葉を発しなくても実生活上で困ることもなく、人格でさえも意識の必須構成要件というわけではない。

私達が思っているよりも、意識やら人格やら無意識やらを、魂やそれに類する存在は利用して使用しているかもしれず、そして上に見てきたように行動にとって意識が必要であるというわけでもない。


という、オカルトのような話が、意識の真相じゃないかと現時点では思った。

つまり、デカルトの言うほど意識というものはさして重要ではないんじゃないか。クオリアの議論も結局、意識の奥にある魂の存在を問題にしている。

意志>魂>身体>人格>意識(クオリア)が図式となる。

ちょうど、「我思うゆえに我あり」はこの序列を逆さまに見た世界観となっている。

今まで長々と述べてきたことは、スピリチュアルな観点から心身二元論の視点をひっくり返してみただけの話である。


本来はどっちでも良いことだ。