神道について

神道について知り得ていることを書く。

 
神道は、日本神話を基にする日本の伝統的宗教である。
日本の土地は伊邪那岐尊伊邪那美命の国産みによってつくられた。従って、土地そのものが神聖なものである。
日本神話の神々(天照大御神)の子孫が、天皇皇室である。
そして今日まで、皇室は続いている。世界で最も長い歴史を持つ国とされている。日本人特有の精神性は神道による影響を広く受けている。
 
神話を基にしているので、神道には教義そのものはなく、祭儀が重視される。
仕事や結婚、あらゆる縁は、神無月(出雲では神在月)に出雲大社で神々が取り決める。従って、日本では家と先祖と縁というものが非常に大切である。
 
日本の土地は宗教、文化、歴史的に特別な意味をもち、代々家が引き継いでいく。
家と仕事は分かちがたく、家々の歴史により相互の扶助関係が成り立っている。
しかし、家と土地と仕事が分離されてゆくと、暗黙の貸借関係が成り立たない事態が生じてくる。
以前は歴史による伝承が担保であったが、土地、仕事、歴史が約束されなければ、空気がその代役となり、村八分をつくり、安全性を担保するようになる。
現在の日本は、空気によって縛られ、圧殺されている。個人の事情は目に見えない空気に封殺され、救いは非個人へと移行する。
誰にも言えない事情は、結局のところ不幸の連鎖を生み、不幸は孤独を生む。孤独でも生きること、不幸でも生きること、誰にも言えない事情を生きること、これが現代の日本人が抱えている主題かもしれない。
 
追記。
神道は穢れ(ケガレ)を嫌う。
その点で、綺麗にする(清める)ことが好まれたり、より具体的なものとして方位学や風水などが日本では流行りやすい。
一方で、家と家業が結びつくことで、穢れのある職業の分業地域として部落集落が存在した。今日まで続く職業(家業)と住む土地への差別意識は、極めて日本的な文化の土台に根差している。
 
ちなみに、震災に対しての義援金やボランティアなどは、日本的な相互扶助関係(近所付き合い)が拡大されたものと言える。従って、歴史による貸借関係が成立するかどうかが重要な問題となる。
そのため、送られるものが適切であるか、また受け取る相手は義と恩情(借り)を感じているかが気にされることとなる。

とある信仰宗教について

箸休めにとある信仰宗教の話。

 

前提として輪廻転生を繰り返し、より高次な存在となるために計画を立てて、修行のために人はこの世に生まれるとする。従って、この世の幸不幸は予め予期されたことであり、不幸を乗り越えることにより人は学び、高次な存在となれるのだと言う。

更に、精神的な波長は引き寄せの法則を通して引き合い、まとまったコミュニティを形成する。従って、善き思いは善い縁を引き寄せ、悪しき思いは悪い縁を引き寄せるとする。

これは因果律として、悪しき思いは悪しき報いを、善き思いは善き報いを得るとみなされる。

思いは言葉に、言葉は行動に表れ、然る後に裁きを受ける。従って、悪しき思いを悔い改め、善き思いに転換することが、不幸からの解脱の道だと説く。

そして心の在り方が、天国、地獄へと繋がってゆくとされる。

 

ここからが非常に特徴的だが、人はそうした破滅への道に曝されながら生きているのであり、縋るものとその基準が必要とされる。

それが主の言葉であり、これに従いながら働き、布教することで、善き世界を作っていくものとしている。

これが信仰である。

以上が基本的な骨子となる。

 

問題点としては、人間の最大の不幸は、転生輪廻をもって救済されるという点であり、不幸を自覚すればする程、あの世の存在というものが必要となり、また原動力とされうる。

次に、善き思いには善き報いが、悪しき思いには悪しき報いがあるとすると、善き思いの基準となるものが必要になってくるが、上位者の言葉が基準となった場合、不安を煽りそれを救うというような言い方となれば、純然たるマインドコントロールとして機能することである。

次に、然るべき裁きが個人に内在化されると、それは他者に対しても向けられるようになる。結果として、都合の良いコミュニティと、都合の良い自己正当化の道具として教義そのものが使われる危険性を孕んでいる。要は排他的になるということである。

最後に、働く事や資産に宗教的な意義を接続すると、理不尽な苦行や、反対に金銭的な裕福さも、全て教義に変換され、吸い上げられる仕組みとなってゆく。

つまり、資産、労働力ともに限界値が死と設定されうる。

 

余談だが、善き原因には善き結果があること、悪しき原因には悪しき結果があること、その間にある自他の苦痛を無視するようになると、これはサイコパス特有の識別学習法に近似しており、信徒の異常性を際立たせる結果に繋がりかねない。

 

以上がとある信仰宗教の問題点であり、宗教組織の問題点として示唆を得るところは大きい。

カバラ思想について

カバラ思想について知り得ていることを書く。 

 
カバラのルーツはユダヤ教であるが、ビッグバン(アインソフオウル)を想定した宇宙意志を前提としているので、ユダヤの聖書からは外れる。
従って、口頭で伝承されて来たものである。
数字の持つ意味や解釈については、占いやタロットカード等にも応用されている。
 
基本的に、生命の樹(セフィロト)の1から10への道筋を通り、また10から1への道筋を通る。
数字の意味は以下の通り。
1.王冠の象徴
2.智恵の象徴
3.理解の象徴
4.慈悲の象徴
5.峻厳の象徴
6.美の象徴
7.勝利の象徴
8.壮麗の象徴
9.基礎の象徴
10.王国の象徴
である。
 
ここからは私的な解釈になるが、
Ⅰ.元型、創造界
1.個の自覚を持った人間が意志と言の葉により他との交流を通し2.智恵に至る。交流するエネルギーは受容されイデアの顕現として3.理解される。
 
Ⅱ.形成界
その世界の秩序は4.に守られ、統合され安定化される。安定化された世界は外に向き5.正義と破壊をもたらす。しかし、犠牲と愛を通して6.美によって調和される。
 
美は魅力と感情を生み7.個人としての勝利者を生み出す。個から世界への分析は賢さとノウハウ(術式)生み出し、それを用いて人間は8.社会の管理者としての栄光を手にする。かくて世界を知った人間は全ての記憶を検閲され9.基礎に至る。その集積された叡智は10.王国への橋渡しとなる。
 
10から1への流れを逆に追うことよって、個というものも説明されうる。
 
実際、ユングユングユダヤ人であるが)系の心理療法で数というものに注目する場合、上記のように進展するので、非常に含蓄も深い。最も、心の内面を扱う心理療法では1から4までの数字を重視する訳であるが。
一方で、人間本質を5.判断力や6.美や装飾する傾向、7.分析能力や8.管理能力、9.検閲能力と類するのも興味深い。
心理療法では4の数字が出れば統合と安定、もしくは内面への守りとして重視し、時として喜ぶ訳であるが、4が秩序への厳しさとして表れるということは一見、見過ごされがちなことであるように思う。
 
ちなみに、知識(真理)と言えるものが、カバラでは3と4か1と6の間に在ると考えられているのも興味深い。
 
数秘術占星術を含む占いは宗教とは根幹が違うように思われがちであるが、上記のようにまるで宗教的な解釈が可能な思想も存在する。
 
 

哲学について

哲学について知り得ていることを書く。

 

幼少期の自分が考えてきた哲学は主として、時間の連続性、物質の連続性、意識の連続性への猜疑(批判)について。

世界5分前創造説や、世界がなぜ出来たか確証を得ることができるか、精神や神の存在とは如何様か云々。

 

認識により図れるものでないイデアや物自体という概念を持ち出すと、形而上学な、あるいは芸術、宗教的側面に接続されてくる。

 

その点で、ショーペンハウエルは非常に面白いと思う。

世界はアプリオリ(先験的)に表象による因果に支配されており、因果を超えたものとして意志がある。

意志は無根拠であるが力を持っており、意志が顕現されたものが世界である。

芸術家は意志が顕現される本質(イデア)を描こうとする者であり、そこに美の本質がある。

一方で、意志を超越した体験、それは神秘的(ヌミノース)な体験であり、これは宗教の本質である。

芸術のレベルには、建築術や職人によるもの、風景画や造園、彫刻や動物画、宗教画と後の方になるにつれて美のレベルが高い。

音楽は、意志そのものであるとしている。だとすれば、歌う人という物も、一種の芸術かなと自分は思う。

 

意志の顕現として国家があり、意志の否定として宗教がある。

キリストの愛他精神は、意志の否定であるとしている。

 

そして、意志の一切の否定として、無が無限を有することについても触れており、これは仏教思想の空へと接続するものである。

 

余談だが、私達が自由意志だと思っているものも、脳科学的には認識より先に脳活動がある。つまり一般的に言われる自由意志は存在しない。ショーペンハウエルの言う自由意志も同じく一般的な自由意志に該当しない性格のものである。

 

何はともあれ、自分にとってそれ以上に面白かったのは、

1.ラジュア=グナ(意志を信じるか)

2.サットヴァ=グナ(イデアを楽しむか)

3.タマ=グナ(空虚で退屈に生きるか)

という3つの生き方であり、それは非常に含蓄の深い人間世界の見方に思えている。

 

 

 

キリスト教について

キリスト教について、知り得ていることを書く。

 

キリスト教ユダヤ教イスラム教は同じ神を崇意しており、預言者や戒律や聖書などの解釈の相違から種々に別れる。

天地創造の神話を持ち、創造主としての神である。

ユートピアや楽園への解釈を巡って、様々な宗教組織の動きが変わってくる。

キリスト教では、特徴として罪と罰としての生であり、主の愛と慈悲による救済である。

 

神が特別に創造した人間を前提とするので、人間は他の動物や自然よりも優越した存在である。

神はグレートインテリジェンス(全知全能)であり、世界は神に設計されたものとして、(聖書的解釈を除外すれば)ID説と親和性も高い。

 

カトリックでは教会を重視し、教会の権威主義への反発として、プロテスタントでは教会よりも聖書を重視する。

労働についての考え方が契約に基づいており、基本的に労働は罰(ネガティヴなもの)と考えられている。

 

人と人との繋がりよりも、土地にまつわる話よりも神(天)に重きを置き、神からの愛としての隣人愛の重要さを説く。

従って、罪を告白することや、主への懺悔をすることが宗教的には事情以上に優越した意味を持つ。

 

余談だが、才能(ギフト)を活かして仕事をすることが愛他的色彩を帯びていたり、その土地の歴史や家柄に縛られ仕事をする人が宗教的と言える程の信念を帯びていたり、人と人との繋がりを大事にする人が極めて俗世っぽい(人情味を帯びた)印象を与えることは興味深い。

自分はそれぞれ、天と繋がる人、地と繋がる人、人と繋がる人と名付けている。それぞれに重なり合うところは当然生じてくるものではあるが。

 

キリストが自己犠牲的な方法を選択したことと関連して、自己犠牲と普遍愛が宗教的なかたちとして賞賛されやすい側面がある。

 

仏教について

仏教思想について、知り得ていることを書く。

 

まず、現象は因果律に起因する。それを補佐するものとして縁を定義している。

廻りまわって、善き行いをすれば善きことが報われ、悪しき行いをすれば悪しき報いを受ける。因果の連鎖によってこの世界は廻っている。

ではなぜ不幸がこの世に蔓延しているのか。それは前世からの業(カルマ)を反映しており、輪廻転生からの解脱の救いを本質とする宗教である。

方法論として、我欲の否定、中道、そして空を至上とした精神性への到達が道筋となる。

禅や瞑想もそれを助ける技法(修行)の一つ。

 

解脱を成し遂げた者は、もうこの世に生まれてくる必要はないとし、仏陀は輪廻から外れた者とされるので、もうこの世に生まれてくることはないとされている。

 

自分の思想の変遷

自分の思想体系について、まとめられればと思っている。

 

小学生時代の自分は、哲学少年であり、死とは何か、意識の連続性、物質の連続性、魂はあるのかということを自問してきた。
結論は、一つは世界はバランスであること、二つは感情そのものに普遍的価値があるという結論に落ち着いた。
 
中学時代は才能というものを自問し、結局、偏差値なるものは途方もなく存在し、才能ある者が大いに存在し、なかでも天才と言われる者には気質的性質が関与し、その裏には不幸なる短所が存在し、他者が羨むような代物ではないと結論付けた。
 
高校時代では、感情というものを自問し、一つは抑圧と解放によるカタルシスと、二つは感情表現と、感謝による幸福とは何かが哲学的主題となった。
また、自我の因果性を超越したところに受容や、受容されたのち実在そのものへの肯定が生まれることも知った。
 
大学時代では、ユング心理学と象徴学、神話、宗教について学び、発達という概念によって生が肯定されうることを知った。
カウンセリングへの結論として、理想と現実の間の感情的断絶を埋めるのがカタルシスであり、カタルシスには涙もしくは血が必要であり、不幸を受け入れて、主体的な選択を取ることが人間本来の生き方であるとした。
余談として、ユーモアと言うものは、間違ったインテグレーションであると定義付けたりもした。
危険性への関与という問題は、時(カイロス)としての見立てが必要であると結論付けた。
 
大学卒業後は宗教と政治について自問し、キリスト教、仏教、神道、それぞれの特色についての大学時代からの整理を行った。
日本独自なるものについては、日本神話からなる皇家と土地の歴史、家と家業にまつわる社会学的連続性、現在は家業と土地なき空気による圧殺が変遷であると結論付けた。
 
その後は、権力について自問し、権威主義モラルハラスメントの実態、目的を持った演技としての権力への意志を洞察した。
 
現在は、純粋意志について、芸術論、不幸の主客を排した生、意志と表象しての世界についてを考えている。